odd_hatchの読書ノート

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大江健三郎「空の怪物アグイー」(新潮文庫)「不満足」「スパルタ教育」 作家は自己自身の反省や創作物への批判を小説の中に取り入れる。

 「空の怪物アグイー」新潮文庫と同じ内容であるが、自分の読んだのは新潮社版の「大江健三郎全作品 I-6」。なので、新潮文庫版とは収録作品が異なり、並び順が違う。この感想では、とりあえず「空の怪物アグイー」にならう。「大江健三郎全作品 I-6」には「不満足」「スパルタ教育」がなく(I-3所収)、「性的人間」が入っている。

不満足(1962年5月) ・・・ 港湾と精神病院のある地方都市(根拠なしに松山と思った)。定時制高校に通う3人の生徒。最年長の鳥(バード)は14歳の女子高生と寝たために退学になり、連れあっている「僕(16歳)」と菊比古(15歳)は米軍基地で反戦ビラをまいたことで退学になる。彼らは町に就職し、鬱屈と無軌道な若者の自堕落な生活をしている。鬱屈の原因は、警察付属の軍隊がつくられ不良から徴兵されて朝鮮戦争に送られる(たぶんみじめに死ぬ)という噂に怯えているのと、町から出られないことにある。ある夕べ、市電の運転手とケンカしたあと、終点にある精神病院から奇妙なアルバイトを依頼される。逃げ出した気ちがい(ママ)を夜明けまでに見つけてほしい、警察に連絡するわけにはいかないから、という。「僕」と菊比古はすぐに飽きたが、バードは熱中する。バードは菊比古にパワハラで泣かせてしまい、彼を無理やり帰らせる(この暴力的な言動がバードの抑鬱になるのだが、それは後日の話)。街の敵対する不良グループの待ち伏せにあってバードは半殺しの目にあうが、その現場のすぐ近くで気ちがいが縊死しているのを発見する。「個人的な体験」の前日譚にあたる。長編では英文科大学院生であったものが、ここでは定時制高校を退学処分された不良になっている。この事件で自分が「大人」であると自覚したから猛勉強して、この港湾都市を脱出したのだろう。長編では菊比古を裏切ったことを後悔しているのだが、裏切りがなにかはよくわからず、むしろ子供への弱い者いじめ、過剰な傷つけの方が問題だな。その暴力的な行為をバードは反省したようではないから。「大人」であることの自覚もここでは抽象的で内実があいまい。そのつけは7年半後のバードを描く「個人的な体験」で払うことになる。語り手「僕」は2のパートになると姿を消し、三人称でバードの内面が描かれる。この設定は混乱するなあ。

スパルタ教育(1963年2月) ・・・ 新興宗教の写真をとってしまったために、カメラマンが脅迫を受けるようになった。妊娠中の妻の襲撃を予告していたために、妻は外にでられなくなり、アルコールに耽溺する。カメラマンは勇気を振り絞って、脅迫している宗教団体に殴り込みをかけ、逆襲された。作家の個人的な体験をもとにしているのだろう。今からみると、対応がどこでも間違っていて、出版社は安易に示談してはいけなくて、脅迫をうけるようになったら警察や出版社と協力して対応しなければならないし(暴行を受けたカメラマンに警察は「自業自得だ」というのは最低!)、妻は安全なところに避難しなければならないし、なにより社会的な話題にして世間を味方にしなければならないし……。50年前の脅迫の様子が21世紀のネトウヨのやり口と一緒なのに愕然。

敬老週間 (1963年6月) ・・・ そのアルバイトは90歳の老人に現在を報告すること。テレビも新聞もみていない老人は現在を知りたいので、学生3人を呼んで7日間話を聞くのだ。文科、理科、教育学部の3人が話をするが、看護婦に念押しされたように現在を幸福な時代と描こうとするものの、老人の想像力はペシミスティックで、奇怪な方向に映ってしまう。学生たちが挽回しようとするほど、現在は分裂した異様なものになってしまう。7日間の勤めを学生は果たすことができるか。「奇妙なアルバイト」を題材にする小説の系譜に連なるもので、「奇妙な味@乱歩」の小説。

アトミック・エイジの守護神(1964年1月) ・・・ 元特務員の男が最も不幸なものを救済するために、広島の被曝孤児10人を養っている。そこからついた二つ名が「アトミック・エイジの守護神」。しかし地方紙の記者がいうには、孤児に生命保険をかけ病死した際の受取人になるという詐欺まがいではないか、と非難する。それから4年後、男はアラブの健康法の伝道者としてマスコミに乗り始めた。彼を再び訪れて、引き取った孤児の話を聞く。これも「奇妙な味@乱歩」の小説。最後の20行ほどで地と図が反転する。男の空回り気味の情熱。それを冷静に受け止める孤児たち。発表時は被曝孤児が成人するころ。

空の怪物アグイー(1964年1月) ・・・ たぶん最後の「奇妙なアルバイト」を題材にする小説。最近離婚し、まったく新作を発表しない音楽家を見守るアルバイトをすることになった。赤ん坊が「脳ヘルニア」と誤診(?)されて、彼は安楽死させることにしたのだ。そのことを悔い、出産後1週間人事不省だった妻と離婚することになった。以来、音楽家は空にカンガルーほどの大きさの赤ん坊が舞っているのをみるようになったのだ。音楽家は自分の仕事や持ち物を処分し、アルバイト学生以外とはコミュニケーションをとらない。奇矯なふるまいをしたあとに、音楽家はトラックの前に身を乗り出してしまう(交通事故死者が年間15,000人もいたころ)。「個人的な体験」のバードとは逆の決断をしたものが心身を蝕んでいく。この決断をしたものの内面が描かれず、軽薄な学生の独白で進むので、音楽家の感じた恐怖や逃避の「地獄」がよくわからない。結果として音楽家は自殺のような死を遂げるのだが、それは「逃げ回り続けることを止める@個人的な体験」をできなかった人物への作家による自己処罰になるのか。音楽家に共感した語り手の学生も、なぜか子供の投げた石つぶてで右目を失明するところも。いい加減な推測をすれば、この「問題」を学生のように軽く扱うことをやめて、内面の問題として真摯に取り組みことにしたのが「個人的な体験」。ここで作家は青春を終えて、大人になったということか(だから「アルバイト」をやらなくなり、妻や子供に責任を持つ職業人に変化する)。
ブラジル風のポルトガル語(1964年2月) ・・・ 四国の森の中の番内(折口信夫によると鬼の意)部落全員が失踪した。森林組合の指示で、森林監視員が帰村を促すことになる。東京でみつけた彼らは町工場で低賃金の職についていた。それから半年後、彼らは帰村する。なぜ部落を捨てたのか、なぜ帰ったのかは説明されない。森林監視員は、次に彼らが棄村するときは一緒についていこうという。村=国家=小宇宙の神話体系の一エピソードのようだし、この国の閉塞状況の暗喩でもあるようだし。経済成長時代、村から都市への大規模な人口移動(集団就職、出稼ぎなど)があり、都市ではサラリーマンの「蒸発」などがあったころ。

犬の世界(1964年8月) ・・・ 小説家の行方不明の弟が来たという連絡が入った。14年前の集団疎開の際に、5歳の弟をむりやり割り込ませた(「芽むしり仔撃ち」と同じ)のだが、はぐれてしまい、敗戦後の混乱で調べようもなかった。慈善事業に熱心なために村で孤立している叔母(性別は逆だが「懐かしい時への手紙」のギー兄さんみたい)の連絡なのだが、記憶をもっていないので真偽は確かめようがない。夫婦は「にせ弟」と呼んで家に居候させたが、彼は暴力的な世界の住民だった。数回、ブラックジャックで半殺しの眼にあったあと、こつ然と失踪した。知的エリートの世界と極端に異なる世界からの「異人」が来て、日常に混乱をもたらす。この設定はこのあとたくさん書かれる「奇妙な闖入者」となる(「生け贄男は必要か」「狩猟で暮したわれらの先祖@われらの狂気を生き延びる道を教えよ」など)。


 「空の怪物アグイー」「個人的な体験」を書くことによって、作家は自己自身の反省や創作物への批判を小説の中に取り入れる。それによって、小説の構造が複雑になり、なぜ小説を書くかということを意識させられる。それまでの勢いで小説を書いていくやりかたを批判的に乗り越えていったわけだ。それは作家の仕事の飛躍であったし、「青年」から「大人」に転身したことを意味する。
 それゆえに「奇妙なアルバイト」のシリーズはここで終わる。アルバイトは仕事に責任を持たず、具体的内容を指示されるものであるから(21世紀以降の非正規社員のことは脇に置きます。これは昭和30年代の小説なので)。指示する内容そのもの、指示する大人の支離滅裂さなどに「僕」を含めた若者は翻弄され、不条理な目にあう。そのような命令や強制に対して不満をもっても、成果や結果に責任を持つわけではないから、アルバイトは自分のことを棚上げにして、上や大人を批判したりバカにすることができたりする。ところが大人になって仕事や家族に責任をもち、自分で判断することを決意すると、雇用形態は脇に置くとして、仕事や活動を具体的に構想しなければならず、成果や結果を出さなければならない。そこで自己反省や自己批判が起きてくるのであり、だれかに転化することができない。すると、小説の主人公や語り手は片手間の、あるいは他人の依頼に応じる仕方での「アルバイト」をするわけにはいかなくなる(なので、この後の小説の主人公や語り手は、職業的な作家か引きこもりの無職となる)。