odd_hatchの読書ノート

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大江健三郎「遅れてきた青年」(新潮文庫)-1

 文庫版のカバー説明には「フィクショナルな自伝」の文言が見えるが、囚われないほうがよい。むしろ「自伝的な装いを帯びたフィクション」とみるべき。なるほど、敗戦の年に12歳であるとか、長じて東大文学部に進学するとか、いくつかは著者の経歴をなぞっているが、それは主題とはあまり関係がないように思う。むしろここではありえたかもしれないもうひとつの戦後を構想することに主眼が置かれる。ありえたかもしれないもうひとつの戦後を夢想するのは、戦時の軍国主義に傾倒したものでもなく、戦後の民主主義に影響されたものでもなく、共産主義の観念にとらわれたものでもなく、それらを相対化し冷笑する社会に適合できないあぶれもの、余所者である。彼は戦時と戦後の日本を嫌悪し、別のありえたかもしれないもうひとつの戦後を構想しようとする「独裁者」。なので、この長編はサルトル「一指導者の幼年時代」マン「詐欺師フェリークス・クルルの告白」などをこの国に置き換えようとした小説だ。

 さて、小説は2つの部からなる。第1部は「1945年 夏・地方」。四国の山村にある村。戦時中に軍国主義少年として優秀であった「わたし」は、敗戦濃厚になったとき、あるささやきで愕然とする。すなわち、「戦争は終わるぞ、君は幼すぎて、戦争に間に合わないよ、ぼうや」という予科練を脱落した青年の声。それまで、自分と村と国家と天皇は一体になっていて、最大の価値を国家=天皇に見出していた少年は、その価値を実現できなくなることを知る(そこが「遅れてきた」という意識)。まあ、通常は「わたし」ほどに自分と別の価値を一体化していないので、村人のように敗戦や占領をあいまいに受け入れて合理化を図るのだが、このプライドが高くしかし臆病な少年は、社会や世界が不合理であり歪んでいると嫌悪するようになる。それは進駐軍がやってきたとき、朝鮮人部落の人々が村に「略奪」されたものを回収したり、高所衆(タカジョシュ)という被差別部落民の娘が米軍兵士に強姦されたときに村人が擁護しなかったことで強化される。同世代の友達から、隣の市で決起する集団があるという怪文書が出回っていることを知る。それに参加するために、ひそかに隠しておいた米軍の自動小銃(村に不時着した黒人兵士を村人が惨殺したときに、隠しておいた)をもって、列車に乗る。しかし、決起は行われず(「わたし」は裏切られたと感じる)、見つかった小銃の責任をとらされて教護院に収監される。
 軍国主義に過剰適応した優等生が価値の転換に対応できず、観念の虜になって(実際に「わたし」は純粋天皇の幻を何度も見る)、非社会的・反社会的になっていく。その結果としての「ひとりぽっち」。理解者ゼロの閉鎖空間。そこには彼なりの事情もあって、たとえばやぶにらみの眼であるとか、どもりであるとか、周囲の差別を引き出すスティグマをもっている。招集された兄はすでに特攻で亡くなっていて、自分の理想の生き方をすでに体現している(そ子から生まれるコンプレックスも「遅れてきた」意識になる)。一方、病死した父とは折り合いができず、村における死後の儀式である魂戻しを拒否してしまい、大人たちの叱責をかう。傍から見ると、矛盾を持っていて、一貫性のない思考と感情の持ち主。彼の周囲にいる人たちは強圧的・暴力的であるか、卑屈であるかなので、彼は反省できない。「わたし」の批判者でありうるのは無垢な弟か、朝鮮人部落の少年であるかだが、彼らの拙い言葉では「わたし」を回心に導かない。そういう点では、あらかじめ破滅が予定されているレールを全力で走って、壁にぶつかってしまったわけだ(この自己破壊衝動は第2部ではさらに奇妙にねじれる)。小説は「わたし」の一人称で書かれているが、周囲の人ときわめて距離を持つようにしている。そこには大衆の嫌悪や生活の嫌悪が満ちているのだが、裏返すと自信のなさを隠すための戦略であるだろう。第1部を通じての挫折は、「独裁者」になるための試練であったが、さてそれはのちに克服できたであろうか。
 この村のできごとは、著者のデビュー以来の小説の集大成といえるか。村のできごとは「飼育」「芽むしり仔撃ち」などと共通している。「わたし」と周囲の人物の配置も似ている。そのうえで、気付いたのは二点。ひとつは、村の高台が「大窪(オオホト)」と呼ばれていること。この地名はたしか「同時代ゲーム」までの村=国家=小宇宙のサーガに出てきたと思うが、読み方が分からなかった。それが女陰を意味する音と同じだった。もうひとつは、高所衆という被差別部落の存在。この小説では「原・四国人」とも言われ、男たちは利き腕ではないほうの腕の腱を切る(結果不具になる)という習慣を持つ。村人とは生活を異にしていて、朝鮮人部落と同じく不便な高台である大窪に追いやられている。この被差別部落はのちの小説には登場しない(まあ、「狩猟で暮したわれらの先祖」に登場した連中が末裔ともいえるが)し、その前の小説にもたぶんない。
 ほかにも村には雅二さとか歯医者とか農村技師とかの除け者がいる。彼らは村で日常の生活はできても、ハレやケの機会(冠婚葬祭や集まり、連絡網など)では朝鮮人部落や高所衆同様に、徹底的に排除されている。狭い空間では特権を振り回す村人も、進駐軍があると途端に卑屈になり屈従を喜んで行うようになる。それは「わたし」の嫌悪を強化するのであるが、この村の構造とパフォーマンスはこの国、日本と一致する。内と外、抑圧と卑屈がないまざし、ビジョンやミッションを持たず内部抗争でバランスを保つシステムであるというわけだ。そういう村を嫌悪するという点で、「わたし」の嫌悪は日本を批判する視点になる。
 著者の視点は「わたし」と一致するものではない。大衆や生活を強く嫌悪するというところは、この長編の前の「セブンティーン」「政治少年死す」の主人公に近い。これらは自分の勘だとひとつのシリーズになっていて、著者自身のパーソナリティや思想とは全く異なるところにいる人物を創造して、彼のパーソナリティや思想を通じてこの国の在り方や社会を批判するという方法をとったものだと思う。

    


2017/02/01 大江健三郎「遅れてきた青年」(新潮文庫)-2 1961年
2017/01/31 大江健三郎「遅れてきた青年」(新潮文庫)-3 1961年 に続く。