odd_hatchの読書ノート

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大江健三郎「セヴンティーン」「政治少年死す」-1

 1960年上半期の安保反対運動は、6月19日の自然承認のあと沈静化する。岸信介が首相を止めたのが大きな理由(反対運動のミッションのひとつを達成したから)。そのあと、10月12日に日比谷公会堂で行われた三党首立会演説会で、社会党党首・浅沼稲次郎が刺殺される事件が起きた。犯人が17歳の少年であったこと、立会演説会がテレビ中継されていたため事件をリアルタイムを視聴できたことが大きな反響を呼んだ。この浅沼稲次郎暗殺事件は沢木耕太郎「テロルの決算」(文春文庫)に詳しい。
<参考エントリー>
日高六郎「1960年5月19日」(岩波新書)
保坂正康「六〇年安保闘争」(講談社現代新書)
 さて著者はこの事件に触発されて、17歳の少年が類似したテロ事件を起こし自死するまでを小説に書いた。第2部を発表したところ、出版社及び著者に脅迫が行われ、第2部は初出誌以外に収録されていない。著者への脅迫の様子はのちの小説に繰り返し描かれる。「政治少年死す」は自分が学生時代に大学図書館に行って初出誌を借り出して読んだ。同じことを考える学生はたくさんいたらしく、該当ページはボロボロになっていた。同じように、ワトソン=クリックのDNA二重ラセンモデルを提唱した論文(たった2ページ)を掲載したnatureもボロボロになっていた。閑話休題

 では読んでみよう。


セヴンティーン 1961.01 ・・・ 17歳の誕生日。風呂の自瀆は素晴らしい満足を与えたが、鏡にうつる「おれ」はみすぼらしい。骨と皮ばかりの小男で、成績は急降下。とくに死、死後の無の継続に恐怖する。そのために授業中に失神、失禁、脱糞して、友人は一人もいなくなった。去年までの優等生はもはや自信がない。唯一声をかける「新東宝」(というあだなのクラスメイト)に誘われて、新橋駅前で「右のサクラ」をする。退屈な演説の途中、ふいに啓示が訪れる。敵意と憎悪と自己嫌悪に満ちた自分の心象風景を「右」の演説が体現していたのだ。「おれ」は「みな殺しの神意」を授かり、他人に怖がられる状態に快感を得る。そして即座に入党し、党首に「選ばれた青年」とされ、学校で生徒会や教師などの「左」と対峙する。1960年5月国会前で、デモ隊を蹴散らした。そのときに死の恐怖を克服していること、一生勃起し続けることを自覚する。

政治少年死す 1961.02 ・・・ 1960年初夏に安保法案が成立し、反対デモが鎮静化する。すでに「右」も路上にでることがなくなったために、若い党員には不満が出ていた。その中から党首の政治工作活動に飽き足らず、クーデターを模索する若い党員がでてくる。8月、広島の反原爆集会で全学連に殴り込みをかけ、同日テレビで「右」を愚連隊といった作家をホテルのロビーで見つけ脅迫するが、みじめに震える作家は拒否する。このあと自分の思想に懐疑も訪れるが、「おれ」に純粋天皇の啓示が生まれ、使命を自覚する。脱党し、農場で肉体運動をする。久しぶりに帰省したとき、家族はみな「おれ」を恐がる。ひとり寝室の暗闇にこもるとき、不眠と恐怖とインポテンツの一夜を過ごす。明け方に、短刀をだす。(続くテロルの様子は別人から「おれ」への手紙として記される)。取り調べで「おれ」は自由な人間であるという確信を持つが、未成年のために希望している死刑にはならず鑑別所送致となる。「おれ」の特別待遇が終了し、特別な人であることが剥奪され、「おれ」の嫌悪する連中のなかで生きることを恐れる。シーツを破り、歯磨き粉で壁に文字を記す。


 「おれ」の精神的遍歴は、笠井潔「テロルの現象学」にある自己観念の肥大と党派概念への執着までに合致する。
2015/07/17 笠井潔「テロルの現象学」(ちくま学芸文庫)-1
2015/07/21 笠井潔「テロルの現象学」(ちくま学芸文庫)-2
2015/07/22 笠井潔「テロルの現象学」(ちくま学芸文庫)-3
 1年前まで成績優秀な生徒であったのに、17歳の誕生日にそうではない自分を発見し、死の恐怖に異様にこだわる。

「おれが恐い死は、この短い生のあと、何億年も、おれがずっと無意識でゼロで耐えなければならない、ということだ。この世界、この宇宙、そして別の宇宙、それは何億年と存在しつづけるのに、おれはそのあいだずっとゼロなのだ、永遠に!おれはおれの死後の無限の時間の進行をおもうたびに恐怖に気絶しそうだ」(新潮文庫、P141)

 この記述は自分がまさに17歳で読んだときに、自分自身のオブセッションを書いているのではないか、自分よりさらに正確に、しかもそれは自分の生まれる前に書かれている、という驚愕と恐怖と共感を持って、熱烈に読み返したものだよ。閑話休題
 それまでの優秀な成績は極端に下降したうえ、メンターが不在(東大の兄に憧れていたが、就職と同時に無気力になって失望する)となり、姉や父とは折り合いが悪く、高校に友人は一切いない(失神、失禁、脱糞で離反)と、アイデンティティと自信が一気に失われたわけだな。こういう「魂」の危機はティーンエイジによくあるものだろう。たいていは読書とか身近な友人らとつるんだりして、特別な自分と特別ではない自分の折り合いをつけ、万能ではない自分を自覚して、落ち着いていくものだ。でも、「おれ」の孤独と恐怖はその道を塞いでいる。
 そこに現れるのが、通常の脱出方法とは真逆の在り方。自分は「選ばれた人間」であるという他人の認証。自分が特権的で万能でありうるという幻想をそのまま維持できるような騙り。20世紀の若者にはそのような「選ばれた人間」である自覚を促す装置としてマルクス主義やその政治団体があったものだが、ここではナショナリズム。それもファナティックな。
 ナショナリズムの装置がもたらすのは、特権意識のみならず、暴力をふるえる環境と性的不満足を解消させる金。国会前や反原爆集会で公権力の庇護のもと暴力をふるえ、それは他人を手段としてしか見なさない偏狭さを獲得できる。トルコ風呂(当時からあったんだ。小説によると、着衣の女性がマッサージをするものらしかった。今のような「サービス」になるのは1970年代になってからのようらしい)で性的満足を得るのは、セックスワーカーを見下すことのできる関係があるため。他者と対等につきあい、他者の権利や欲望に配慮するという仕組みがない。こういうふうに「おれ」がであったアイデンティティ回復の装置は危険なものだ。
 もちろんこれだけでは、「おれ」の危機は回避できないので、自信喪失で失った自己とか自我を埋めなければならない。「おれ」は自分で考える代わりに他人の考えで手っ取り早く埋める。谷口雅春が書いたらしい本から「忠とは私心があってはならない」の一節を見つける。「私心がない」というのは自己とか自我がないことの承認だろうし、「私心がない」というイデオロギーは他人の批判を拒否する防御壁になる。
 そうしたうえで、「おれ」が見つけるのが「純粋天皇」という幻想。実在の天皇には一切かかわりがなく、「おれ」の観念の内にだけ存在し、実在感がある。なにしろ純粋天皇は死を超越し、地球や太陽の滅亡があっても残り続けるというのだ。しかも純粋天皇と交流できる回路をもっているのは「おれ」ひとりである(民族右派の党首も、脱退して新たな右派団体を立ち上げようとする旗振り役にも、純粋天皇は見えないし、理解できない)。そうやって「おれ」は無敵となり、他人の生死を決める権利があると考える。(純粋)天皇の栄光を守り通すことが「おれ」の使命であり、生きる理由となるのだから(なので、1960年夏の平穏は「天皇の夏休み」と認識される)。
(小説から離れると、自己や自我のなさを観念で埋めるのは「おれ」にかぎるわけではない。「神」とか「超越的知性」とか「宇宙人」「UFO」から、「革命」「国家」「民族」「組織」などさまざまな実体のあいまいな概念、観念で埋められる。そうした観念の虜になった人たちの小説は、たとえばフランス「神々は渇く」ドストエフスキー「悪霊」、メルヴィル「白鯨」アンドレ・マルロー「人間の条件」ウィルソン「賢者の石」山田正紀「神狩り」などなど。)

    

2017/02/03 大江健三郎「セヴンティーン」「政治少年死す」-2 1961年 に続く。