odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

ミラボー伯「肉体の扉」(富士見ロマン文庫)

 ミラボー伯はフランス革命初期の指導者。生涯はこちらを参照。
オノーレ・ミラボー - Wikipedia
 大政治家である人も、若い時にはやんちゃであったらしく、ときに監獄に入れられた。ヴァンセンヌ獄中にあるときに、「肉体の扉」なる性愛小説を書き(たぶん1776年ごろ)、1786年に出版された。当時のフランスでエロチカ文学がどういう位置づけだったか解説を読んでもよくわからない。せいぜいマルキ・ド・サドが同時代人であることを知るばかり。なので、これは宮廷文化の反映なのか、反発・批判なのかはよくわからない(たぶんフーコーの本を見ればわかるかも)。ともあれ18世紀後期のポルノがあり、今日に伝わるほどよく読まれた。(とはいえ、最初のミレニアム期のアラビア、中国、この国には優れた性愛文学があったので、西洋はこの点でも遅れていたなあとも思う。追記:しまった、ペトロニウス「サテュリコン」とロンゴス「ダフニスとクロエ」を忘れていた。)
 さて、物語は貴族の娘と思われるロールのヴィタ・セクスアリス。10歳になって父の手ほどきを受け、家庭教師の助けも得て快楽の達人になる。長じては若い娘の教育も熱心に行い、それぞれが快楽の達人になりました、という半生のお話。描写は委細を尽くし、官能の語彙は見事。まあそこには踏み込まないでいくつか気付いたところ。
・風呂に入ったり、全裸で一日過ごしたり、海綿の避妊具をつかったりしている。当時の生活を思い起こせば、風呂は普及していなく、トイレはなく、暖房は貧弱であった。とすると、この官能の館はリアルな現実ではない。最終場面には複数名で饗宴を開く。今日ではありふれた日常が、当時はおそらくとてつもなく豪華で贅をつくした遊びであったはず。文字通り想像の内にしかありえないものではないかと妄想。(笠井潔「群衆の悪魔」参照)
・官能描写はおもに視覚と触覚に限られ、においやあじはほとんど登場しない。上の事情のせいかな?
 この小説に注目するのは「父」の存在。なにをしているのかわからないこの「父」が娘の能力を開発し、知識の教育を図る。ずぬけた知性の娘はそれを吸収し、自らの言葉で思想を語るようになる。「父」はおりしも進行している啓蒙主義の担い手であるのだ(小説中でヴォルテールの小説が紹介される。たぶん「カンディード」1759年だ)。
 この父の思想をみよう。
・人生は肉欲・野心・吝嗇の情念にコントロールされていて、適切に情熱や愛情を使わなければならず、互いに心ひかれた者同士で友愛に生きるべきだが、慣れが欲望を鈍らせる。なので、自然の推進力に従わねばならない。そのような生き方の時、快楽において人間は平等になるのであって、女性も例外ではない。女の気勢は「女が女であること」に従うのだから、相手を選んだり取り替えたりする権利は女にもある。浮気の権利は女にもある。以上は、領主には初夜権があり、それがようやく廃れてきたと書いているボーマルシェ「フィガロの結婚」とほぼ同時期の主張だ。ミラボー伯の主張の斬新さ、過激さがよくわかる。さらには男色には?がつくもレズビアンは問題なしというからLGBTの先取りともいえるかもしれない。
 ミラボー伯は立憲君主主義者として知られるが、その背後にはこのような人権尊重、性差別撤廃の思想があったのだ(まあ時代の制約はあって、21世紀の主張からは遠いけど)。細部の描写よりも、こちらのほうが面白かった。

<参考>

ロココとは性の解放の時代であった。芸術や文学だけではなく、自然科学や哲学においてもエロスはタブーではなくなり始めていた。従来キリスト教は人間の原罪をアダムとイブの性交渉の中に見てきたが、十八世紀の自然科学と合理主義の台頭は性を含む『自然』の賛美を促し始めたのである。コンディヤック(1715-80)は思考の起源を触覚に求めたし、ヒューム(1711-76)はエロスを人間社会にとって重要で根源的な原理と考えていた。ディドロ(1713-84)は『ダランベールの夢』の中で自慰行為を肯定し、イラズマス・ダーウィン(1731-1802)は感覚の起源を、乳児期に女性の胸に触った経験に求める学説を提示した。そしてダーウィンを含む当時の医者の多くは、良好な健康のために性生活を奨励したのである(P61-62)」

岡田暁生「オペラの運命」(中公新書