odd_hatchの読書ノート

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大森壮蔵「音を視る、時を聴く」(朝日出版社)

 朝日出版社は、いろいろな学問の著名学者と文筆業者と対談させるというシリーズを1980年代に出していて、たぶん20冊強までいったのではなかったかな。数冊は読みました。その中でも印象的な一冊。版元を変えていまでも入手可能なのはこの一冊くらい。

 大森哲学は、1980年代の一時期流行したように思うのだが、今はどうかしら。流行ったといっても、ニューアカデミズムの一員に数えられたわけではない。
 彼の関心は、認識とか時間とか人間の基本的な機能を説明するのに、デカルト以来の自然科学の言葉ではうまくいかないだろう、ということ。もしかしたら、それ以前の説明のほうが「常識」(これもデカルトやロックのいうものではないし、共同体の中の暗黙の共有事項というわけでもないし、国家の教育体系で示されるものでもないし、で充分注意が必要。自分のつたない言葉でいえば生まれから身体を使ってきたことによる共有感覚みたいなもの)に沿っているのだが、言葉が粗雑なので、現在使えないし、自然科学の言葉は「常識」に流入して「汚染」しているのでそこから逃れることも難しい、ということらしい。
 いくつかの説明をまとめてみよう(そのとたんに大森の概念から遠く離れたものになるのだろうなあ)。
・時間を現在、過去、未来の直線でとらえるのは人間に共通な認識の仕組み。しかし自然科学の言うような幅(ほらここでもうずれてる。大森は「幅」といわない)ゼロの時間は存在しない。機械は数千分の一秒を作ることはできるが人は認識できない。そこで数千分の一秒の音は「在るのか」という問題が生じる。さて、時間はそのような点の集積で、過去は凍結したもの・未来は来たらざるものというのはあやまり。人間の時間は「只今」という広がりをもったもの。過去も未来も「只今」において存在する。
・自然科学の説明では、感覚器(目、耳、鼻、口、皮膚など)の刺激が脳に伝わり、脳の化学反応で対象を区別し、分類し、判断するなどの認識行為を行うとしている。これも誤りで、すでに感覚器において分類・区別・判断などが起きている。脳はそれらの情報のふるい分けみたいな操作をしている(ここは大森の主張ではないかもしれない)。
・同様に、人の行為は意思とか目的とかを脳が指令して、運動器や感覚器にフィードバックしていると思われるのだがこれも誤り。そんな認識と指示機能を脳を持っているわけではないし、意思とか行為とかを内話で確認しているわけではない。駅に向かって街をぶらぶらするということを考えてみよ。そのとき目や足の動きそのものが意思や目的の表れであり、脳の指示を受けて動いているわけではない。(ええと、この辺りを読んでいるとき夢野久作ドグラ・マグラ」に出てくる「脳髄論」を思い出した。)
・そんな具合に、自然科学の認識の説明では、感覚器や運動器の情報が脳に集積され、脳の中の「小人」が分析、判断、指示しているというのだが、そんなことはない。そのような認識マシーンとしての<私>は存在しない。(<私>は存在しない、というのは大森哲学のキャッチフレーズだが、それだけ取り出すと誤解しそうね。デカルト的な心身二元論で現れる「私」が問題にされるのであって、生物学的な「私」ではないことに注意。)
・人がそこにないものを思い起こそうとするとき、たとえば鏡のない状態でセーターが自分にあうかどうかをイメージ(これも大森の排斥する言葉)するとき、そのセーターを着ている自分をイメージするがそれは存在している、ただし未来に投げ出されるもので「只今」には現れない。
・人には語りえないものがあって、ひとつは自分が死んだ後のことを自分の体験の言葉で語ること、ひとつは測定していない事物の状況を表現すること、もうひとつは他人の感覚を自分が体験の言葉で語ること。そういうあいまいとかはざまを、生き死に、知覚、人間観というふうにまとめている。
 最後に大森が言うように、この種の問題を意識しなくても生活には支障がないし、しかも自分の常識を語るのだから、目新しい発見があるわけでもない。その語る言葉が生活で使う言葉と異なり、論理も違ってくるから、なんとも不思議な感じになるのだ。厳密に語ろうとするほど、言葉の使い方が常識というか生活から離れていってとまどうことになる。でも、そういうことが気になるのは、人の1-2%くらいはいるので(もっと少なくないかな、自分の「感じ」「印象」だからまあいいや)、哲学はあるんだよね、というお話。