odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

テオドール・アドルノ「ベートーヴェン 音楽の哲学」(作品社)

 編者解説によると、アドルノには「ベートーヴェンに関する哲学的仕事」をまとめる構想があったらしい。大量のメモが書かれた。いくつかは短い文章になったものがあり、「美の理論」「楽興の時」などに収録された。それらは「哲学的仕事」を網羅するまでに至らず、作者の死によって構想は中断された。死後になって、ベートーヴェンに関する文章、メモ、断片、講演、放送などを全部集める一冊ができた。それがこれ。収録は書かれた時代順ではなくて、編者によるカテゴリー別になっている。目次は以下の通り。
序曲/音楽と概念/社会/調性/形式と形式の再構築/批評/初期の局面と「古典主義的」局面/交響曲分析の周辺/晩年の様式(一)/晩年の様式を欠く晩年の作品/晩年の様式(二)/人間性と非神話化/付録

 アドルノが自分のために書きつけたメモがほとんどなので、内容が散漫であったり、繰り返しであったり、思考の途中で中断したり、とまあ雑駁な内容。そのうえアドルノ自身が音楽の専門的な素養を身に着けている(子供のころにワルトシュタインを弾けたくらい)ので、詳細な楽曲分析もある。専門家はこの断片からアドルノベートーヴェン論を抽出、再構築するくらいのことを考えるかもしれないが、自分には無理でした。ここからアドルノの思想を抜き出すことも困難であるし。
 というわけで、ほとんどのページをものすごい勢いでトレースしたのだが、それでもいくつか気になるところや妄想したところはあるので、無秩序に自分用のメモを残しておく。
アドルノ交響曲は美的で中立化された人民集会だといっている(P63)。演説、論争、決議、祝祭などであるそうだ。そういえば、晩年のアーノンクール交響曲第5番は「従来解釈されていた『運命と闘い勝利を得る』という構図ではなく、民衆の反乱を描く作品だ」といっているのを思い出した。終楽章でピッコロ、コントラファゴットトロンボーンが採用されたのは楽器の拡大ではなく、路上で使われる楽器(とくに軍楽隊がマーチを演奏するときに使われる楽器)を導入することで音楽の場が路上にあること(とくに示威行動)を暗示したのだとも。アドルノの指摘は、50年後のアーノンクールの解釈につながるものかもしれない。
・それに加えると、古典派の音楽では、調性・楽器・メロディなどには意味するものがあって、聴衆はそれを読むようにして交響曲を聞いたという。そうするとシンフォニーはまず舞台音楽の序曲としてあったり、18世紀の古典派交響曲では物語を叙述するタイトルを持つものもあった(ディッタースドルフ「転身物語」によるシンフォニア集)。コンサートで作品解説などないときでも、聴衆は目に見える演奏と聞こえる音で、音楽を「読む」ことができた(これは当時の絵画や博物画と同じ。絵にあるアイテム・ポーズ・配置などからその象徴するものを見出し、文字通り絵画から「物語」を読む。荒俣宏「図像探偵」光文社文庫など)。そのなごりは19世紀初頭まであって、たとえば交響曲第6番「田園」。これは非常にわかりやすいので、調性や楽器やメロディの意味するところを知らなくとも、今の聴衆でも音楽から物語を読みとれる。それはほかの交響曲にも通用すること(おなじくアーノンクールモーツァルト交響曲第39・40・41番にひとつながりのストーリーをみいだしている。たぶんベートーヴェン交響曲第9番もそう。終楽章で「歓喜の歌」の最初の合唱のあと、唐突にトルコマーチになるが、あそこで音楽は演奏会場(たぶん教会)の外にでて、市庁舎か広場(町の中心)に向かって行進を始めたのだ。広場で死者の追悼をして、ふたたび前衛によるアジがあり、群衆=市民の大合唱という祝祭になる。そういう市民参加、革命の物語がある)。その音楽を読み取る伝統はたぶん1830年代の「市民の時代」「芸術の世俗化」によって失われる。新しい聴衆である市民は教育と啓蒙を受けていないので、意味を読むことができない。なので、あらかじめ言葉で物語を説明しよう(そうすることでベートーヴェンに代表される古典派が実現できた市民讃歌、音楽による革命扇動を実現しよう)というのが、のちのロマン派のやり方。リストの交響詩だしワーグナーの楽劇。でも、言葉や思想に依存する度合いが高くなって、音楽もつ力は失われたというのが、アドルノの見方。でもディレッタントはあらかじめ用意された言葉を読むことで解読できるから、リストやワーグナーに熱中したのかもしれない。初期ニーチェが代表かな。(ハンスリックが「音楽美論」で、音楽に物語を読むことを拒んだのは、リストやワーグナー以前のロマン派の見方の代表のように思うがいかがかしら。)
・そんな妄想を持つのは、アドルノベートーヴェンの作品を叙事的なもの(田園、ヴァイオリン協奏曲)と交響的なもの(英雄、運命、クロイツェル、ワルトシュタイン、熱情)に分けていて、その中間あたりの舞踏的なもの(交響曲第7、第8番)とわけているからで、第9番の第1楽章でそれらが融合したと想定するというところから。
アドルノベートーヴェンの晩年様式に注目しているが、それは本書中のメモよりも、「楽興の時」の二つの論文(「ベートーヴェンの晩年様式」「異化された大作『ミサ・ソレムニス』によせて」)で自分には十分。
テオドール・アドルノ「楽興の時」(白水社)-1
テオドール・アドルノ「楽興の時」(白水社)-2
 晩年様式では最後の5つの弦楽四重奏曲が重要であるというのだが、アドルノはそこを十分に説明・展開しなかった。メモを読んでも、自分にはちんぷんかんぷん。妄想すれば、ベートーヴェンの晩年様式を継承した作曲家はいなかったのだが、没後100年にあらわれた十二音音楽によってようやく実現したというのがアドルノのみた歴史なのかもしれない。
 アドルノの趣味では、大公とバガテル(op.126)が高評価。吉田秀和は「LP300選」でどちらも選ばなかった作品で、ここらの趣味の違いがちょっと面白かった。