odd_hatchの読書ノート

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ルートヴィッヒ・ベートーヴェン「音楽ノート」(岩波文庫)

 ベートーヴェンは、当時の人と同じく手紙をたくさん出していて、それだけで一冊の本になるくらいの量になる。それとは別に、手帳や楽譜などの書き込みなどがたくさん残っている。というのも、耳疾疾患のために難聴になり、晩年は筆談になった。そこに書いている文章の多くは、本人ではなく、彼と話をしたい友人や弟子やクライアントであった。そこから彼の生活や健康状態を知ることができる。また、作品を完成するまでの執拗な訂正・改訂の際に、さまざまな書き込みをしていて、そこから作品に関連した彼の心情や思想を見ることができる。有名なのは、ミサ・ソレムニスの「心よりいでて、願わくば心に帰らんことを」や弦楽四重奏曲第16番の「これでよいのか、これでよいのだ」かな。

 そのような手帳、メモ、書き込みなどからベートーヴェンの言葉を集約したものが出版されていて、この「音楽ノート」には200くらいの断片が収録されている。手帳の筆談は、山根銀二「孤独の対話」(岩波新書)に詳しいのだが、あいにく著者の文体が自分に合わないので途中で読むのを断念。興味のあるかたはどうぞ。入手難だけど。

 とても薄い本なので、1時間くらいで読了。おおざっぱには
1.若いころの恋愛に関係するメモ: 終生独身ではあったが、何人かの恋人がいたらしく、彼女のことがかかれている。あいにくイニシャルだったり、名だけだったりで人物を特定できていないので、後世の歴史家は浩瀚な研究をしている。まあ、当時から彼は醜男だったという評判がたっていて、そのうえ気難しい人物だったらしいから、恋愛はうまくいかなかったらしい。ここは自分にあてはまるので、涙なしには読めない。
2.さまざまな本からの引用: カント、シラー、シェイクスピアギリシャ古典などからの引用。当時の一般教養がどんなものなのかがわかる。おもしろかったのは、インド哲学書の引用が多かったこと。同時代のゲーテが「西東詩集」でインド哲学を書いたり、ちょっと前のラモーが「ゾロアストロ」という歌劇を書いたりして、18世紀後半には西洋でちょっとしたインドブームがあった。どうやら18世紀前半にインドの紹介がなされ、次第に流行が広まっていったらしい。
3.晩年の生活苦労: 甥カールに関する不満と期待とか、女中ほかへの愚痴とか、金銭苦とか。1820年代になると、ウィーンではイタリア音楽(ことにロッシーニ)に趣味が移って、ベートーヴェンの音楽は売れなくなっていた。その反映。
4.ミサ・ソレムニスと交響曲第9番の作曲中のメモ
にわけられる。
 1957年に訳者が編集したもの。この抜粋に見られるベートーヴェンは、苦悩する天才、社会に認められない不遇な芸術家、苦悩の果てに勝利(あるいは満足)を見出す人格の完成者、市民社会モラリスト、普遍原理の探索者になるのかな。補注ではロマン・ロランの名がよくでてきて(ロランもベートーヴェンの言葉を編集しているようだ)、彼に代表されるようなベートーヴェンの見方が反映されている。
 でも、モーツァルトほとではないにしろ、ベートーヴェンはユーモアもあるし、くだらないことに怒ったり(ピアノ曲「なくした小銭への怒り」)、自然の中を散歩するのが大好きだったり、甥を溺愛するバカ親だったりするというような人間くさいところがある。そこまで広がりをもたせた編集も可能だろうし、そういうほうがベートーヴェンを聴くための入門にはよいのではないかなあ。