odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

開高健「過去と未来の国々」(光文社文庫)

 1960年春に日本の作家が中国に招かれる。この本によると参加者は、野間宏団長、竹内好(か実)、松岡洋子西園寺公一大江健三郎開高健。ほかにもいたかもしれないが、名前は出てこない。正式な国交はないので、入国にしてかの国の事情を知るのが極めて困難な時期だった。なので、この一カ月強の旅は全員に強烈な印象を残して、それぞれがエッセイ、随筆、記録を書いている。自分の知っているところでは大江健三郎が「厳粛な綱渡り」にいくつかあったはず。規模の大きいのが開高健のもので、雑誌「世界」に連載されたあと、岩波新書になり、いくつか版を変えてでた。
 日付に注目しなければならなくて、この時期、この国では安保反対運動の高潮期。国会前では連日10万人規模の集会デモがあり、全国主要都市でもデモがあり、6/4にはゼネストもあった。6/15深夜、国会前で女子大生が死亡し、6/19深夜に自然承認となった。
保坂正康「六〇年安保闘争」(講談社現代新書)
日高六郎「1960年5月19日」(岩波新書)
 中国旅行に参加した作家はリベラルであって、この運動に多大な関心を持っていて、事態の推移に心痛ませていた。それの呼応するように中国では日本の反安保運動支持の運動が起きていて(官制であるだろうが)、日本の作家は行く先々で歓迎と、支持の宴会にでることになる。一方中国では、毛沢東大躍進政策が進行中であった。結果は失敗であり、飢饉の連続で膨大な餓死者がでた。その情報は隠され、この招待旅行の最中に日本の作家は目につかない(解説によると、開高がこの中で、宴会で中国側の出席者が魚を一心不乱に食べていると指摘しているのがわずかな痕跡とのこと)。

中国 一九六〇年五月三〇日〜七月六日 ・・・ 香港から入国して、広州、上海、北京などを移動。中国側は複数のガイドや通訳を付けて歓待にいそしむ。おりからの日本の反安保闘争には「日本人民支持、アメリカを反面教師に」と口々に言われる。文学や政治の話は通り一遍で、深く話し込もうとすると「公式会見の新聞用語」を繰り返されるか、口ごもられるか、予定時間になるか。とはいえ、そこを突っ込むには、15年前にこの国がしたことへの痛悔で躊躇させられる(ちなみにこの本では南京大虐殺の話が出てきて、死者は42000人とされる)。またこの知識人たちにしても「中国3000年」の歴史には通暁していても、実物をもって示されると圧倒されざるを得ない。そのうえに「物事をやりだすと徹底的にやらねば納まらない」や「中国人の感受性の耐性の強さ」なども見せつけられると、茫然とせざるをえない。そういうわけで、作者のルポにしては精彩を書く一編なのであるが(路上を傍若無人に好き勝手に動き回れないとなると、修学旅行の感想文にしかなりえない)、白眉は毛沢東周恩来との会見の様子。事前情報なしでいきなり彼らの執務室に生かされ、1時間ほどの会見(というか一方的に話を聞く)になる。そこでの権力者の描写は迫真的。(あと20世紀前半の「現代中国」の紹介分析をしていたのはアメリカ人ジャーナリストのみだった、スメドレー、スノー、バックほか、本来なら日本人がやるべき仕事をしてこなかった、というのは痛いところをついている。)

 以降は同年秋の東欧旅行。こちらも招待旅行。本文を読む限りでは同行者はいなかったとみえる。しかしガイドが付き、スケジュールは決められて自由になることが難しく、政治や文学を語るには双方の知識が乏しく、「公式見解の新聞用語」を繰り返される。市井や場末にいって肉声らしい肉声を聞くことはきわめて困難。なにしろ、スターリン批判から5年目で、社会主義国家の「思想、表現の自由」は制限されていた。

ルーマニア 一九六〇年九月/チェコスロヴァキア 一九六〇年一〇月/ポーランド 一九六〇年一一月 ・・・ 最初の内こそガイドを通して国家や社会を見ようとするが、次第にその書き方を止めて、内省にふけるようになる。東欧は周辺の大帝国から侵略されることが夥しく、民族(ネーション)が独立したのは20世紀になってから。その後もドイツ、ソ連の大帝国の支配下にあり、民族と国家が一致するのは1989年以降を待たねばならない。となると、この時期には民族国家としての自国を熱心に語るのもはばかられ(ときに熱心に語るとソ連から戦車がやってくる)、他国からの旅行者には微笑と理解と良心と友情を示すものの胸の内は明かさない。おのずと作家も口ごもるようになる。そしてこれら社会主義の国には過去(ナチス体験)と未来(社会主義の)しか見当たらないのである(それがタイトルの由来)。
 ことに過去の記憶は、島国のこの国とは比べ物にならず、他国人による虐殺と支配はすさまじいのである。国境が破れることはこの国ではめったになかったが、国境の破れが国語までも奪われるという体験をしたことはない(すなわち自国語は家庭内でひそかに使うものであり、ドアの外ではよその言葉を使わなければならない。と気軽に書いたが、この経験は在日コリアンが20世紀以来ずっとしてきたことでした。自分の不明を恥じます)。そのうえで、施設がそっくり残っているアウシュビッツ収容所では、恐怖やサディズムに戦慄し、その種の想像力を上回る破壊と虐殺を起こしえた(それもアイヒマンのような凡庸きわまる俗人に企画され実行されたという絶望)。だからこそ作家の「この時期(1920-30年代)の世界ほど、人間が過去に対するときほど現在と未来に対して賢くなりえない原則をさらけだしたものはほかにない。日本についてはいうまでもないことだ(P229)」という悔恨が悲痛に響く。であるから、作家にはさらにこの主題を追及してほしかったのだが、あいにく関心は「現代」のベトナム戦争に向かい、過去には向かわなかった。惜しいと思う。
 招待旅行は翌年のイスラエルほかが最後(「声の狩人」光文社文庫)で、その後の旅は個人で行くものになる。そちらのほうが、作家の筆はのびやかになり、市井や場末の肉声をふんだんに聞き、心身を酷使した上での感情がほとばしるものとなる。


 この2冊(「過去と未来の国々」「声の狩人」)は、冷戦時代の社会主義諸国のルポとして「歴史的証言」(帯の惹句)になる。その時代を気分と雰囲気を知らない読者は、さらにいくつかを読み、動画や画像をみないとわかりにくいかもしれない。