odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

イサベル・アジェンデ「精霊たちの家」(国書刊行会)-5

2017/06/30 イサベル・アジェンデ「精霊たちの家」(国書刊行会) 1982年
2017/06/29 イサベル・アジェンデ「精霊たちの家」(国書刊行会)-2 1982年
2017/06/28 イサベル・アジェンデ「精霊たちの家」(国書刊行会)-3 1982年
2017/06/27 イサベル・アジェンデ「精霊たちの家」(国書刊行会)-4 1982年 の続き。



 通常、歴史は男性が語るもの。なので、主人公は男性で、男性に起こる事件や男性の集団をめぐる抗争や連帯として描かれる。この小説でもそのような見方をとることもできるが、それではとても貧しいことになる。入植者の子孫が貧しい暮らしをしているところに、山師の男性が美しい娘に求婚する。彼は農場で成功し(このやり方は開発独裁そのもの)、他の事業にも手を出し、老年にいたって国会議員になり保守系政治家として有名になる。息子らは父の意思を継がず、社会運動家になったりスピリチュアリズムに入れあげたり。ついには子供を残さず、この一族の直系は三代で潰える。
 この貧しい歴史は女性の側から見ると、魅惑的なものになる。なるほどニベア(祖母)-クラーラ(母)-ブランカ(娘)-アルバ(孫娘)は、社会的な記録に残るようなことをしていない。そのうえ、男の権力に従うしかない生き方をせざるを得ない。ことにクラーラまでは強制的に無知な状態にさらされていたので、自分の社会的な能力を発揮するのも困難。それでもニベア婦人参政権運動に参加し、クラーラは学校や病院の慈善事業を起こし、ブランカは母の手伝いをしながら愛を実現しようとし、アルバは共産主義運動に関与する。彼女らはそれぞれの運動においてリーダーシップを持つわけでもなく、記念になるようなこともしていない。端役として小さく関与するだけ。しかし、彼女らはそれぞれの世代のアーリーアダプターだった。なので、この小説のテーマの一つは女性が人権を獲得・拡大する歴史であるということができる。
 そのような点で見たときに、男性に対する女性の優位はこんなところ。男は無鉄砲、むら気、無責任、怒りっぽく、復讐を行動の動機にする。デル・バージュの男たちはこういう傾向をもっているし、その女性たちに関係する男もそう。一方、女性は粘り強く、勤勉で、笑顔を絶やさず、癒しや許しを行動の動機にする。男性読者である自分からすると、この指摘は納得しがたいところもありながら、なるほど女性から男性はこのようにみられているのかと驚くことになる。そうすると、デル・バージュ一族と関係者の男性は殺されるか、チリから脱出してネーションを捨ててしまったが、女性が連綿と歴史を継続することになる。エピローグでアルバは誰が父親かわからない子どもを懐妊しているが、その子(性別はわからないが、女性であるのだろうと読者は思う)が歴史をつなぐ。アルバのみたてによると、歴史は繰り返しであり、運命が決まっている。なので、私生児として生まれる子供は、もしかしたらエステーバン・ガルーシアのような復讐心を持つかもしれないし、あるいはさらにその子供らがアルバと同じような目に合うかもしれない。にもかかわらず、女性は憎しみを忘れることができる、復讐の連鎖を止めることができる。そこが女性の男性より優れたところ。
 この小説では、マジック・リアリズムとか本の中の本とかさまざまな意匠があって、それを検討することも面白そうだが、ここではもっとも心奪われたテーマに絞って、感想を記しておく。

 この小説は国書刊行会河出書房新社から出版されているが、重くて持ち運びに不便なので、文庫化を希望。ガルシア=マルケス「百年の孤独」エーコ「薔薇の名前」といっしょに。
(追記2017/7/7 俺の願いが聞き入れられたのか(そんなことはない)、初紹介以来四半世紀がたってようやく文庫化されました。慶賀。)


      


 以下は2006年に書いた映画の感想。
 「愛と精霊の家」
 1994年ドイツおよびいくつかの国の出資で映画化された。映画の原題は「The House of the Sprits」であるのに、なんのつもりで「愛」なんぞの言葉を付け加えたか、そのおかげで、原作の豊穣さの一端は失われることになった。それは本編にも言えることで、邦訳では2段組400ページになんなんとする大長編を2時間に圧縮しようとするとなると、幾多のエピソード、脇の登場人物を省略せざるを得ず、そうなると「マジック・リアリズム」と称される言葉のジャングルの豊かさは一気に失われることになる。ゆっくりと・いつまでも物語が続いているからこそ、凋落の哀れさ・悲しさが引き立つのではないか。
 もうひとつは、小説では出来事が起きたり、人物を紹介するときに、これは過去のこういう出来事と照応しているものである、未来にはこういう結果をもたらすものである、という時間を行き来するナラティブが地の文で語られている。そして未来で予言されていた出来事が起きたときには、過去の出来事を参照し、その連続性を感じることができたのである。それらによって、読者は目前の出来事や人物たちを深く考えることになり、この小説を重層的に捉えることができるのだった。このようなナラティブの面白さが映像には欠けてしまう。その結果、ただの時代劇あるいはラブロマンスになってしまったと思う。長編小説の映画化というのは難しい。(そりゃ、毎回ナレーションが入るのではうるさいからねえ。難しい。)
 トゥルエバ一族の娘はだれもが美貌の持ち主であった、という記述によって、クラーラはメリル・ストリープが演じている。当時の30代で気品のある女優というのは彼女一人くらいのものだったのかな。とはいえ、われわれの心をとろかすほどの神秘性を持ちえない(そんな女優はいるのかしら)。それに困るのは、その周囲の人物たちも一様にハンサム・キュート・ビューティであることで、チリの田舎の出来事という設定でありながら、これは宝塚かブロードウェイか、と眉をひそめることになり、興を削ぐことおびただしい。