odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

イサベル・アジェンデ「精霊たちの家」(国書刊行会) 資産家トゥルエバ一族のほぼ四代にわたる家族の肖像。軍事政権・不況から脱出する未来ないし希望というのはこの「女性的なるもの」の豊穣さにこそある。

 ガルシア=マルケス百年の孤独」を読んだ(1990/6/18)半年後に、この本を購入しておきながら十数年放置してしまった。今世紀初頭にチリの荒野に入植してきた家族に起こる様々な出来事の奔流にのることができず、ほんの数ページで数年分が記述される圧縮された語り口に違和感を持った。
 それが、とりわけ霊能者クラーラの魅力に取り付かれたとたんに、この家族(誰をとっても普通な人はいないが、それでいてわれわれの隣人たちに見かけることのできるような凡庸な人々)の長い物語は読者の心に響くものになった。途中から最後までの250ページ(二段組になっているから原稿用紙1000枚分になるのかな)を一日で読みきった。途中何度ももうやめよう、翌日の仕事に差し支えると思いながらも、ページを繰ることをやめることはできない。こんな読書の体験をしたのはいったいいつ以来なのかしら。もうそれだけで、この小説は傑作に値する。

 大状況は、チリの近代史にほぼ符合する。今世紀初頭の大規模農業に依存した農業国家が、1910-20年代の好況期にいくたのベンチャーを立ち上げるも失敗、西洋諸国の資本引き上げ後、長い停滞。1930年代のファシズム、1950-60年代の社会・労働運動、1970年代の社会党共産主義)政権樹立、直後の軍事クーデター。物語において年号が現れることは一度もないが、登場人物たちの口吻や淡々とした事実の記述から、これらの歴史が見えてくる次第になる。もちろん、作者はこれらの歴史的事実に評価を下すことなどないが、それぞれの時代を象徴するような人物たち(パリの貴族出身で山師のごとき事業家であったり、宗教活動に熱心なあまりインドでグルになりついにはアメリカで宗教法人を立ち上げる双子の兄であったり、共産主義活動家から社会派シンガーソングライターになる農夫であったり)の波乱万丈の行く末に作者の思いがこめられていると見た。
 中状況は、地方の資産家トゥルエバ一族のほぼ四代にわたる家族の肖像。もっとも魅力的な人物は、未来を占うことができ、霊能力を持ち、ピアノの蓋をしめたままショパンを演奏できるという二代目末娘クラーラだ。この人、家事能力は一切できなかったが、彼女がいるだけで植物が茂り、花が咲くという不思議な能力がある。しかもトゥルエバ一族の女はだれもが絶世の美女。というわけで、いるだけで心浮き立つこの存在は一族の中心であり、女族長メイトリアートであるわけだ。とはいえ、いわゆる肝っ玉母さんというわけではなく、天使のような存在。エステーバン(クラーラの夫)同様に霊能者クラーラに惹かれてこの長い物語を読み進めるのだった。作者があらかじめ予告したように物語の3分の2に至って、クラーラが亡くなると、家族は凋落に至る。それはこのような守護神であり、天使であるクラーラの庇護によって繁栄してきたトゥルエバ一族が外部の寒風に吹きさらされたとき、現実対処力のなくなるまでに衰退してきた一族の力があらわになる。
 クラーラとは対照的なもう一人の人物エステーバンも魅力的な人物だ。この人物、徹底的な現実主義者にして資産家、怒りっぽく粗暴。およそ共感を持てる人物ではないのだが、彼が怒りを向けるごとに(クラーラが彼の愛を拒んだり、娘ブランカ共産主義者と逢引をしていることにだったり、地方にある農園の雇用人たちが反乱を企てたり)、物語はぐいぐいと進んでいく。この人は地上の権力や暴力を象徴する人。そうであっても、彼も年をとるにつれて、癇癪や粗暴さが消えていき(しかも身長や体つきが縮んでいくという奇怪な設定がなされている)、それとともに外部(国家や集団)の暴力がより強大になっていく。このあたりにも作者の暴力感が見えているに違いない。ほぼ百年にわたる長い家族の歴史を描いたこの小説において、冒頭から閉幕まで出ずっぱりであったのは、この保守主義エステーバンにほかならず、彼の息子たち(その中には、農場の小作人を強姦して生まれた私生児も含まれる)のと葛藤が描かれる。となると、クラーラに代表される「母性」の連続の物語と見えながらも、一方この父権の体現者によるピカレスク・ロマン(悪漢小説)とも読み取れる。このシチュエーションは「カラマゾフの兄弟」だな、あのような思想性や個性の対決はないが。
 最後の小状況ではあるが、ほとんど中状況と一致しているのであって、とくに説明のいるところはない。作者が女性ということであって、女性の内面の描き方は細密を極め、クラーラにしろ、その娘ブランカにしろ、その孫アルバにしろ、生き生きとしていることといったら比類がない。彼らの個性と内面の前に、男性陣は影の薄いところがあるが、先のエステーバンにしろ、双子の兄弟ニコラスとハイメにしろ、ブランカやアルバのボーイフレンドにしろ、類型的でない人物はひとりもいない。この記述の力というと本当に感心させられる。
 とはいうものの、物語の魅力は作者の筆から現れる種々の奇怪な出来事であって、文章はリアリズムそのものであっても、超常現象や異常事態が冷静でさりげない筆致で語られる。そこにはいかなる形でも作者の姿をみることはできず、おのずと幻術に惑わされ、草花の芳香に見当識を失い、夢幻を眼前に見ることになる。このほとばしり出る細部のエピソードこそこの作のもっとも読みがいのあるところなのだ。
 終盤に至っては、チリと思しき国の首都で軍事クーデターが起こり、娘アルバが共産主義者たちを支援していることが知られて、当局に逮捕・監禁され、幼馴染(エステーバンの私生児にあたる)に拷問を受けることになる。このおぞましい事態においても冷静な筆致は続く。この国の小説にもおそらく拷問シーンは書かれたに違いないが、ここまでリアルなものというのは見当が付かない(戦後派の一部にあるかもしれない。五味川純平「人間の条件」、大西巨人神聖喜劇」あたりか。いずれも未読。戦前プロレタリア文学にもないだろうし、戦後の学生運動を描いた小説にも心当たりがない。遠藤周作「沈黙」とか堀田善衛「海鳴りの底から」のキリシタン弾圧のあたりか。埴谷雄高「死霊」と笠井潔熾天使の夏」)。プイグの「蜘蛛女のキス」を想起するように、中南米の軍事国家の苛烈さといったら自分のような惰弱なものには描きようがない。そのような事態であっても、作者は心の強くやさしい女性の存在に目を配るのであって、未来ないし希望というのはこの「女性的なるもの」の豊穣さにこそあるというのではないだろうか。
 このような駄文を賛辞とするには、作者と作品の名誉と傷つけることにほかなるまい。ジャーナリストの経験があるとはいえ、40歳を過ぎてからの最初の小説でこれだけのものを生み出すというのは、信じがたいことだ。しかしそれは存在する。そのことにわれわれは喜び、ガルシア=マルケス百年の孤独」の亜流ないし模倣という非難は一蹴するに限る。とにかくこの10年来の読書において、これほど感動的な小説はほぼ唯一なのである。これは、傑作である。自分はこの作品に平伏する。
 個人的な事情を追加すれば、この十数年の間に「家族」について考えることが多かったためかもしれない。まあ、自分にとって「家族」は抽象的なものでしかないわけで、この小説に描かれたような「母性」というのはよくわからないし、エディプスコンプレックスなども縁がないわけなのだが。
(以上は2006年6月に書いた。)
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2017/06/29 イサベル・アジェンデ「精霊たちの家」(国書刊行会)-2 1982年
2017/06/28 イサベル・アジェンデ「精霊たちの家」(国書刊行会)-3 1982年
2017/06/27 イサベル・アジェンデ「精霊たちの家」(国書刊行会)-4 1982年
2017/06/26 イサベル・アジェンデ「精霊たちの家」(国書刊行会)-5 1982年