odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

筒井康隆「驚愕の曠野」(河出書房新社)

 「おねえさん」が子供たちに本を読んでいるようだ。すでに大量にある本の半分は読み終えている。「おねえさん」が朗読する本を読者はいっしょに読む。
 すでに332巻に達した書名の不明な本には、紹介なしに複数の人物が現れ、飢えや強盗、裏切り、とりわけ巨大な蚊におびえながら、旅の暮らしをしている。「影二」「小清」「鹿歩」「五英猫」「武祉摩天」「一狼」「需妥仏」などの人物名はいったい何と読めばよいのだろう。知識のないものが漢籍かその読み下し文を読むときのように、読み方をでっち上げ、とりあえず字面が同じであることを確認しながら、彼らが同じ人物であると了解しながら読むしかない。それに彼らの話は、映画のダレ場にあたるところで、ストーリーが停滞し過去を回想する場面。次のシーンにジャンプするためのエネルギーをためているところ。しかし、331巻より前の巻を読むことのできない「驚愕の曠野」版の読者は、すでにいったん完了したストーリーを想像するしかないのだが、どうにも手がかりがない。
 少しずつ明らかになるのは、この小説の世界はとりあえず「唆界(さかい)」と名付けられていて、死ぬと別の世界に行く。「唆界」の下位には「燗界(らんかい)」が、さらに下には「批界(ひかい)」がある。「唆界」の上位には「訣界(けつかい)」がある。転生の先ではおぼろげな前世の記憶が残り、名前を変えて、新しい物語の人物としてストーリーを運ぶことになる。すなわち、すでに登場した上記の人物たちは、より前の巻において別の名前で別の冒険をしたものであり、あとの巻では死んで転生した先で過去に出会った人物と再会することもある。そのような複数の世界と複数のキャラクターが入れ替わり立ち代わり、容姿と名前を変えて、物語を紡ぐ。ここで少しの恐怖を抱くのは、全体の物語は始まりも終わりもなく、同じ人物が組合せを変えて同じ物語を延々と反復しているのではないかということ。
 そのうえ、この「影二」「小清」らの物語は「おねえさん」という物語の外にいる人物によって朗読されているのであるが、彼女は「驚愕の荒野」版の物語の半ばで死に、別のものが代読する。朗読する先の物語では、「おねえさん」と思しき死体が現れ、彼女が読み終えなかった巻を登場人物が読みだすのである。読みだした物語では、「おねえさん」が巻を読むに至るまでの話が過去の話として表れる。ここで少しの恐怖を抱くのは、いったいどの物語が「ほんとう」なのかわからなくなることだ。「おねえさん」のレベルが読者の物理現実と地続きであったとおもえたのが、「影二」「小清」らの物語では別の誰かに読まれる話であることになる。別の誰かが読んだ物語のなかには「おねえさん」が物語を読んでいる物語もある。「現実」と「物語」の関係が反転したかと思うと、その先ではまた反転し、その先でまた反転し・・・テキストで書かれた「メビウスの輪」を読者は歩くことになる。
 そのような終りのない物語と、現実と物語の永遠の反転の恐怖におそわれるのであるが、「驚愕の曠野」版に収録されたその物語は紙の風化、劣化の影響を受けている。和綴じの本はボロボロになり、ページだけ、さらには断片だけになる。結果、ページを繰るにつれて、残っているテキストは文章の破片だけになる。いつしか数文字しか残されていないページだけが印刷され(表裏の文章が対応するように、律儀にレイアウトされている)、読者は空白を埋めようにも情報は足りない。ここで、テキストの空白もまた恐怖となって表れる。
(あるいは古いぼろぼろの本(死海文書とかナグ・ハマディ文書、古墳時代の鉄剣に掘られた文字列などを想起せよ)を解読したとき、破損部分が空白のまま提示されることがある。あるいは戦前の検閲で伏字だらけになった文章。)
 まあ、そういう具合にテキストとか本とかの根拠を壊していく物語。表層は伝奇小説。なんとも手ごわい一編。1988年初出。
 どうやらオリジナルの「物語」は1000巻もあるようだが、「驚愕の曠野」版では数巻しか収録されていない。そうするとどこかに完全版があり、それは「唆界」とか「訣界」などの全部を記述した全体小説であるのだろう。でも、そのような全体小説は20世紀後半にはもはや構想できない(なにしろプルースト失われた時を求めて」のような巨大な試みをしても、全体を書き尽くせないから)。とすると、「全体」を描くには二つの方法がある。ひとつはマルケス百年の孤独」や大江健三郎同時代ゲーム」のように要約として小説に書くこと。もうひとつはボルヘス「伝奇集」やこの小説のように断片を並べること。いずれも読者の側が積極的に読み込まないと全体は見えてこないので、なかなか試みられないようだ。