この作家の小説では、たいてい主題が作中で説明されていて、ここでは章「5」で語り手が行う講演に他ならない。現実と虚構と夢には差異がなくて等価。どれが地でどれが図なのかということこだわることは不要。であれば、積極的に現実と虚構と夢の境を取っ払って、浮遊の状態を「生き」ましょう。それぞれの場所における役割を引き受けて仮面を取り換えながら、現実と虚構と夢を往復しましょう。まあ、現実の差別とか夢の自己破壊衝動などの、どうにも克服しがたいもんだいがあるのだが、そこはカッコに入れておいて(そこは、この小説がバブルの浮かれた時代に書かれたのだなあと思うところ)。
主題はそこまで読み進めればわかるのであって、読むときには作者の技法に注目しよう。この小説はさまざまな技術の集まりであって、いろいろの伏線がのちのページで回収されて意外な結びつきになるというのがいたるところにある。なので、簡単にメモを取りながら読むことを推奨。
さて、小説は数字で区切られた8つの部分からなる。ひとつの部分は次のように経過する。まず中年の男性が目覚める。それが7までの章で繰り返される。目ざめるのは朝であったり夜であったり。そのあと、各部分はつぎのような構造を繰り替えす。
目覚め―食事―家族や同僚への不満―移動―「夢の木坂」への執着―無内容の饒舌―コミュニケーションの障害―心理劇/集団治療―就寝。
目ざめるごとに語り手の名前は少しずつずれていく。小畑重則→大畑重則→大畑重昭→大村重昭→大村常昭→松村常賢(つねかた)→大村常賢(ここで5章の中間点である講演になる)。ここまでメタモルフォーゼンしたあと、同じ経路で名前は戻っていく。ここで将来つけられることになる名前は、小説の中で先取りされていて、しくじった仕事の発注者であったり、講演する作家であったりする。あわせて語り手を囲む人々もほとんど同じでありながら、名前や役割がずれていく。それは妻や娘や母であり、上司であり部下でありライバルである。名前と役割が少しずつずれた連中が同様に名前と役割を少しずつずらした語り手と一緒に、少しずつずれた物語を繰り返す。
以上を合わせた技法はクラシック音楽の技法に似ている。物語は変奏曲で、「1」の部分で提示された物語の要素と並びが「パターン」になっていが、次の章で要素と並びに装飾や対旋律などを追加されて変奏される。少し異なる同じ話を繰り返す。繰り返すごとに、最初の「パターン」から離れたものになって、ほとんど最初の「パターン」を思わせないものになっていく。その技法は、個々の要素を逆転させたり(朝を夜にするとか、役割が交換されるとか)、配列「パターン」を入れ替えるとか。こういう逆行・反転などはクラシック音楽の対位法の技法。要素や並びがある物語の地は、現実→虚構→夢と変化する。物語の推移は最初は合理的論理的で物理現実のルールに忠実であったのが、あとになるほど飛躍的連想的になり物理現実のルールから逸脱していく。ドアを開けると別の場所に移っているとか、いないはずの人が現れるとか、時間を跳躍するとか。名前も上記のように一字ずつ入れ替わっていくが、ページの中間点にある講演を境に逆行をはじめ、メタモルフォーゼした順番でもどっていく。こういう鏡像反転もクラシック音楽の技法。なので、この小説の構造を、ベルク「ヴォツェック」とかマショー「わが終わりはわが初め、わが初めはわが終わり」みたいと思いましたよ。
そこらを楽しんだうえで最後の8章になると、登場人物全員があつまっての心理劇で集団治療になる。なるほど「1」で提示された物語の「パターン」はこの小説全体を覆いかぶさる構造でもあったのか。「1」から「8」までの各部分が上にまとめた「パターン」のひとつひとつにあたる。フラクタルのように全体が部分を模倣している(その逆に部分が全体を模倣しているでもよい)入れ子構造になっている小説なんて、聞いたことも読んだこともない。「8」の部分で登場人物全員による集団セラピーが始まった時、このことに気付いて仰天しましたよ。
現実と虚構と夢が等値であるとすると、それぞれのシーンで役割を変えて現れる「私」というか自我とか主体というのはじつにあやふやで頼りない。そのうえ集団セラピーシーンにあるように、他人の発話や身振りなどを模倣しながら、他人になり替わることができる。そういう認識にたつと、この小説のどこが地なのか図なのかを詮索するのは不要。与えられたシチュエーションに適応しようと、役割と仮面を変える姿をみていればよい。それはたぶん読者もやっていることで、自室と家庭と職場と遊び先での行動性向を変えていくのと同じだ(そこらへんは渡邊芳之 「『モード』性格論」紀伊国屋書店の主張に似ていて、深く同意する)。
ただねえ、集団セラピーやサイコドラマで他人の模倣や演技をして、「自己」を発見していくというのは自分にはどうにも耐え難くて。他人を観察し感情移入して模倣するというのが、現実の他人の感情を推測できない自分にはどうにもやりようがない。たぶんメディアによくあるキャラクターのパターンを演じるしかなく(集団治療に必要な感情移入や観察がないまま)、それを自覚しているのに恥とか罪とかの意識を持つもので。なので、「8」の部分はときにページを閉じて逃げ出したくなった。おれはこの小説の構造はわかるけど、感情移入ができない「不出来な読者」。