odd_hatchの読書ノート

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筒井康隆「虚人たち」(中央公論社)-2

2017/10/09 筒井康隆「虚人たち」(中央公論社)-1 1981年


 何もすることがなく何をしたいのかわからない男が突然登場する。とりあえず彼は自分の名が「木村」であり、妻と娘・弓子が別々に誘拐されたのを思い出し、息子といっしょに追いかける。手がかりはなく、でたらめに移動しているうちに、息子が自動車を奪って逃げだし、事件を聞いてから数日間無断欠勤したために会社から馘首され、妻と娘の救出にはまにあわない。最後に「彼」は「ほぼ15年前に未解決のままで完結した筈の主題」を思い出す。となると、1966年に何かが起きていたことになる。
 こうして「彼」は、妻・娘・息子・仕事をなくし、家や財産もなくすだろうことが予告される。「中年の主人公が自分の大切なものを次つぎに失っていく(「残像に口紅を」)」テーマがここで先取りされている。中年の喪失の感情(とりわけ家族の喪失)は、読者の感情をえぐって揺さぶるものだ。でも、ここでは感情移入がしにくい。なにしろ、とりあえずの主人公である「彼」からして、喪失は物語の進行上避けられないものであり、シーンごとの自分の演技や情景の表現に気を取られ、深化することがない。場違いとかとまどいがあって、喪失の感覚が希薄になっているのだ。
 そうなったのは、「彼」が「虚(構の中にいてそのことに自覚している)人たち」のひとりであるからで、彼のリアルが読者の物理現実のリアルとはまるで違うところにあるから。「彼」の時間はエントロピーが増大するように一方向に進むのだが、虚構の物語の必要によって「彼」の時間と空間はいきなり別のところに飛ぶ。妻が誘拐されたことを認識すると妻の現在の思考が聞こえ、同様に娘の場合もそう。夕方あたりの時間とおもわれるのが、夜になり、取引先のビルに到着したのが深夜ではあるが担当から事情を聴かなければならないという要請で時刻は午前9時ころになり、退席した後移動しないで会社の会議室に現れる。読者のリアルが物理原則に従っているのに対し、「虚(構の中にいてそのことに自覚している)人たち」のリアルは物語の必然とか要請とかに依存しているからだ。
(「事件の発生が必ずしも誕生を意味せず終わりが死亡を意味しない世界では各個人がそれぞれ自分にとっての本来の事件を見極めなければならない。ないという可能性があるにもかかわらずだ(全集P131)」とあって、これが「虚(構の中にいてそのことに自覚している)人たち」の生ということになる。作者は小説のテーマと手法を作品中で解説している。一連の実験小説もそうなので、注意深く読もう。)
 そのうえに、虚構であることを示すのは文体にもある。たぶん多くの人がまずここでいらだってしまうだろう(それは初読のときに自分も経験した)。「彼」の時間がエントロピーが増大するように一方向に進むのは、原稿用紙1枚が物語の1分に該当するという厳密なルールにあるため。なので、「物語」の1分を経過するために、「彼」は見たものや内話などの心理過程を逐一報告することになる。見たものといっても、それが実在なのかセットなのかは不明。季節も天候もあいまい。何もすることがないので、そのとまどいや場違いの感がそのまま垂れ流され、他の人物も書く仕事はしないが重要な情報を提供しないで、自分の役割と演技のことくらいしか話さない。このほとんど無内容な、しかし膨大なテキストを読まなければならない。途中、「彼」は頭を殴られて失神するのだが(ハードボイルドのお約束)、その間の時間は空白となる(はて、「彼」が失神している間の時間をカウントしていたのはだれなのだろう?)。
(「自分の時間が省略されていない代価として自分は何か非常に重要なものを失わされているのではないか(全集P86)」とあるので、文体そのものに「中年の主人公が自分の大切なものを次つぎに失っていく」テーマがあることになる。)
 さらに文章の実験がある。地の文章は現在形のみ。それは「彼」がリアルタイムで実況(さて、この「リアル」とか「実」って何だ?)しているから必然。過去のことを話題にするときには「思う」「気づく」「悟る」「考える」を文末にして、思考を現在の行動として書く。思考の途中でアクションがはいると、容赦なく文は途切れ、短い行動の文が挿入され、文字列の途中から再開する。句点(、)も登場しない。思考が途切れたり、行動が完了することは読点(。)で分けられる。息継ぎはない。改行もなく全集版150ページがひとつの段落からできている。最後には「事件はたった4時間35分で完了した」というので、原稿用紙275枚を改行なしですませた。会話は段落わけしているので、最低限の読みやすさは残る(「虚航船団」では会話の段落わけもなくなる場面がある)。
 読後のカタルシスとは無縁、スノッブな知識の羅列もなし。読了しても残るのは「おれは頑張った」という自分にとってだけ意味のある達成感のみであるが、それもまた読書のありかたのひとつ。