odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

筒井康隆「みだれ撃ち涜書ノート 」(集英社文庫)

 雑誌「奇想天外(廃刊)」にたぶん1975年から1979年までの3年半連載された「涜書ノート」。このタイトルも韜晦であるが、まあ書評や評論をするつもりはなく(しかし結果として優れた評価を集めた本になった)、いかに面白く本を読んだかという記録。全部で150冊をとりあげ、8日で一冊の割合で読んだ計算になるが、その3-4倍は読んだというから、いかにプロとはいえすさまじい読書量だ。同時期に「腹立半分日記」で日常を書いているが、小説を書いたかどこかに出かけたかに終始していて、いつ読んでいるのかわからない。まことに40代前半の著者はいかに精力的であったことか。
 そのような体力と知的好奇心に関心するのは実は二の次で、この「涜書ノート」のすごいのは、取り上げた本のノートを読んでいるうちに、その本を読んでみたくなることだ。これは新聞や雑誌の書評欄と比較すれば一目瞭然で、自分はこの20年ちかく、雑誌や新聞の書評を読んで購入に至った本がまずない。とりわけこの数年の書評の衰勢は著しい。物語の要約を書いて「損はしない」程度の感想を書いただけの書評ばっかり。出版されている本がつまらなくなったのか、書評家の力が衰えたのか、こちらの好奇心が頽落したのか、まあおおむねこちらに責任があるのだろうが、それにしてもねえ。
 仇し事はさておくとして、「本について書かれた本」を読むのは読書好きであるから面白いのであるが、再読できる「本について書かれた本」はこれもまたとても少ない。少ない中で自分はまずこれを推薦する。それくらいに面白い。勉強になる。
 賛辞を続けると、すごいのは次のところ。
・取り上げる本の範囲の広さ。SFやエンターテインメント小説はまあ職業柄当然として、戯曲も多いのは作家の経歴からしてそんなもんだろうとして、最新のアメリカ文学に、紹介が始まったばかりの中南米文学まで目が届き、文学論も押さえたうえで、映画・心理学・生物学・法律・マスコミ論まで。ことに中南米文学は作家が熱心に賛辞を贈ったので、80年代にブームになった。
・本の面白さやつまらなさの核をいっぺんにつかみ取る力。例は、大江健三郎ピンチランナー調書」、カルペンティエール「時との戦い」。当時の評者はすどおりしたことを、著者はわしづかみでだしてくる。その見事なこと。それができるのは、実作をしているだけではなくて、小説を方法として読む技術をもっていて、豊富な読書の体験と記憶を持っているから。著者の作品のうわべに騙されてはならない、この人はとんでもない知識と経験の持ち主で、方法と技術を供えた人。そうそうこの人にはかなわない。
・作家の文学や小説に対する考えが現れている。ノートの端々で、文学はこういうもの(ああいうものではない)、小説はこういうもの(ああいうものではない)と書かれる。そのアイデアがのちの虚構理論とか「文学部唯野教授」などに結実する。それにしても、当時の「文壇」の偏狭さにはあきれるねえ。SFその他の新しい文学や方法(パロディとかパスティーシュとか)に無理解で、リアリズム一辺倒でしか評価できない。著者はその無理解や不勉強を感情や印象でなく、方法や理論で批判している。文芸批評の役割もこの短い文章群に加えている。(そういう方法的な文芸批評を当時のたいていのSF作家ができたらしいのもすごいこと。星新一小松左京やその他。)
・創作のアイデアをどう取得するか、どう深めたり広げたりするか、作家の方法が書かれている。レトリックの本を読んで新しい比喩を考えたり、他人の小説をこうしたら面白くなると妄想したり、人間以外の生物の生態を取り上げたり、罵倒の本から語彙を見つけたり、引用だけで書かれた本を賛辞したり。これらのアイデアが実作に反映しているので、そこと照らし合わせるのもおもしろい。思い当たる作品を見つけると、それだけでニヤニヤしてしまう。
 読書の楽しみをダイレクトに伝えることができるのは稀有なことであり、そのうえ著者による要約で該当する本を読んだつもりにもなれる。四半世紀ぶりくらいの再読でも興奮できた。

  

 「全集21」にはシナリオ「部長刑事」も収録。中小企業の社長が殺され、部屋には犯行動機のありそうな容疑者4人が残っている。警察が来て、取り調べの最中に回想シーンが挿入される。そこに現在の人物が入ってきて、とんちんかんな反応をするものだから、回想している人物が困惑し、現在の人物はきょとんとする。すなおに流れる時間を解体した結果のドタバタ、とでもいおうか。殺された社長の妻の会話で真犯人が自白する。その犯行動機の意外なことといったら! そしてタイトルページに戻ると副題に「もうひとつの動機」とあって、実はすでにテーマは予告されていたのでした。当然読者は読み過ごすのであって、そこまで作者は計算している。