odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

筒井康隆「おれの血は他人の血」(新潮文庫)

 山鹿建設に最近入社したばかりの経理課員である「おれ(絹川)」は二重帳簿をみつけてしまう。この会社は常務派と専務派が激しく対立していて、経理部長は専務の命で裏金をつくる工作をしていたらしい。派閥抗争には無縁であるはずだが、社長秘書のささやきで調べることにしてみた。ある夜、街のバーで飲んでいたら、ちんぴら三人に因縁を付けられ、暴力を嫌っているのに、怒りの訪れとともに意識が遠のき、気を取り戻せば、三人をてひどくのしていた。この突発性暴力衝動に「おれ」はいつも悩まされていた。激しい後悔のあと、街を牛耳る左文字組の幹部から用心棒にならないかとスカウトされる。のしたちんぴらは敵対する大橋組で、報復の応酬になると心配しての措置だった。
 というわけで、住民がピストルを携帯するのが珍しくなく、周辺の街からは隔絶している架空の地方都市で、ハメット「血の収穫」黒澤明「用心棒」のようなストーリーが展開する。これらと異なるのは、暴力沙汰が節ごとに起きること。左文字組と大橋組の対立は、山鹿建設の常務派と専務の対立を巻き込み、暴力団とサラリーマン(建設現場にいるのでダイナマイトの所持が可能という設定)が拳銃をぶっぱなし、どすや日本刀を振り回し、重機やダンプで建物に体当たりしたりする。街中に死体が放置され、血の匂いがし、服には血と肉塊がついているという凄惨な姿になる。
(それが残酷にならないのは、ユーモアのあるためで、著者が好きな岡本喜八監督の「暗黒街の顔役」「暗黒街の対決」「「暗黒街の弾痕」のような無国籍アクション映画の系譜上にあるから。)
 用心棒稼業のさなかに大橋組に因縁を付けられる。怒りが意識を遠のかせ、10人以上をたたきのめしていた。のちに一人の若者が刺殺されているのがわかる。「おれ」はエモノはつかわないはず。なのに刺殺犯として目を付けられた。その容疑を晴らすために、「おれ」は動かざるを得ない。それに、バーの女や秘書が「おれ」に惚れているようだと気が付くと彼女らの無事のためにも街中を駆け回ることになる。臆病でもめ事が嫌いな凡庸な青年が、どんどんハードボイルドの主人公になっていくのが快感(そのうえ無敵の強さを持っているというのも、男性読者の感情移入を容易にする)。「おれ」の強さは暗黒街に轟き、ふたつの組の組長が用心棒になれといい、山鹿建設の上司や役員も一平社員に丁寧な応対をするようになる(会社の権力を持つ者、暴力の世界に住む者が「おれ」の強さを認めていくという過程も、男性読(略)・・・)。
 「おれ」が動くと、蝶のはばたきが突風にかわるように、どんどん暴力が拡散し、拡大していく(参考「旗色不鮮明」)。ついには街中を二分する銃撃戦(なんと警察までも分裂して抗争する)になる。血糊、断末魔、うめき、死体、銃弾の痕、破壊された建物や自動車、などなど凄惨な光景が現出するのだが、奇妙に明るく、気分をめいらせない。セリフのある登場人物はクライマックスでほぼ全員死亡するのだが、彼らがそろって悪人であり、「おれ」が反省しない性格であるからだろう(最後まで生き延びた暴力団の幹部がにくめない愛嬌があって、いい味を出していた)。あと、人物全員が元気で生きがいいことも。1972年初出なのだが、この時代の「若さ」とか「勢い」が反映しているだろうなあ。
 初出年(1972年)で思いついたのは、このころから暴力描写がすさまじいものになっていった。たとえば、ペキンパー「わらの犬」1972、シーゲル「ダーティ・ハリー」1971、フーパー「悪魔のいけにえ」1975などの映画。望月三起也ワイルド7」、永井豪デビルマン」などのマンガ。現実においては連合赤軍事件、新左翼内ゲバ、種々の強制代執行、デモへの暴力などが日常的にみられていた。著者もこのあたりから暴力描写に注力していって、「毟りあい」とか「如菩薩団」とか「問題外科」などの怪作を立て続けに発表した。
 この町の暗部をえぐりだすという物語と同時進行するのは、「おれ」の出自捜索の物語。なぜ「おれ」は突発性暴力衝動をもっているのか、なぜ「おれ」は意識と肉体が離脱したときに謎の言葉を叫ぶのか、なぜ異様な怪物が内にあるのか。そのような「おれ」のアイデンティティにかかわる謎をエディプスのように探る。その行く末も気になる。