odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

筒井康隆「全集7」(新潮社)-1969年前半の短編「走る男」「チョウ」

 1969年上半期のの短編。東大闘争が安田講堂の「落城」で終焉に向かう。

断末魔酔狂地獄 1969.02 ・・・ 平均寿命が140‐160歳になった21世紀。100歳の若者(書かれた時代の若者で、著者の同世代)が葬式で大暴れ。「からだはしっかりしているが、ぼけてしまって無茶苦茶」をするタイプがほとんどで活動的であると想像した(「恍惚の人」はこの数年後)が、21世紀にそんな金を持っている老人はまずいない。作家の誤算。

ホンキイ・トンク 1969.03 ・・・ 格安のコンピュータをカジノと観光の小国に納入した。発注主のプリンセスはコンピュータを狂った回答をするように調整したいと言い出す。実際、前後矛盾する政策を発表するようになった。これは「ファースト・コンタクト」のひとつ。あとさかさまの「ローマの休日」。20代の独身なので、作家も主人公も元気で鬱屈しない。

団欒の危機 1969.03 ・・・ テレビがなくなった日。やることのない三世代同居の家族は物語で時間をつぶすことにした。それぞれの不満や欲望があらわになるのがおかしい。メキシコオリンピック、東大安田講堂実況、月面着陸などでカラーテレビが爆発的に普及した年。

走る男 1969.04 ・・・ 身体を動かすことをしなくなって、オリンピックに興味をもたなくなったとき、長距離走に出場した男。コースの指定されていない道を走り、下水道に入って、水をかけられて・・・。どんどんストーリーがずれていく浮遊感。30歳で老衰になり、感情が希薄になっていく。80年代の実験小説の先取り。

歓待 1969.03 ・・・ 去年、最高の歓待を受けた惑星に赴任することになった。期待していたら。

ここに恐竜あり 1969.04 ・・・ 恐竜が現れ、人間を殺し町を破壊する。中学生の幸夫に恐竜の声が聞こえる。次回のゴジラ映画の原作がここにありますよ〜。

若衆胸算用 1969.04 ・・・ カッコよい若者がカッコ悪い中年に嫉妬される。デモカッコいいものはカッコいい中年に目をつけてもらえる。問題は年をとるのはカッコ悪い、でもそんな先のことを考えるのはカッコ悪い。

駝鳥 1969.04 ・・・ 砂漠を旅する旅行者と駝鳥。金時計を食べた駝鳥を旅行者は少しずつ食べていく。なんとも背筋の寒くなるショートショート。何かの寓話におもえるが、なんの譬だろう。

ワイド仇討 1969.04 ・・・ 幕末、小心者が敵討ちに出ることになった。他の敵討ちと徒党を組んで大道芸を披露しながら全国旅回り。維新となって明治にはいり、新聞社の企画で相手も徒党を組み、一気に始末することになった。明治百年記念が前の年。白戸三平や平田弘史の武士マンガが盛んに読まれていた時代。

流行 1969.05 ・・・ 尻に敷かれるのと亭主関白が占いで決まる日。ショートショート

オナンの末裔 1969.05 ・・・ 自涜をしたことのない独身男はいかににして自涜を貫徹するか。作家はまだ独身。

チョウ 1969.06 ・・・ 飼っているチョウがどんどん大きくなって、日が射さなくなり、鱗粉で呼吸困難になる。どんどんチョウは大きくなるのに、大人は急速に関心を失っていく。このころひどい煙害や光化学スモッグがあってのお。都会の子供らが喘息になって困っていたんじゃ。

ぐれ健が戻った 1969.07 ・・・ 映画「仁義なき戦い」の下っ端やくざが久しぶりに帰ってきて、「寅さん」のような家族の会話が始まったと思いねえ。「男たちのかいた絵」1974年の後日談になるのかな。

弾道軌跡 1969.7.6 ・・・ 発表日の15日後に行われる最初の月面着陸の「真相」。ブラウン「狂った星座」を読んでいたな(笑)。あと登場人物が作者の苦労を心配する。のちの実験小説のはるかな先駆。

馬は土曜に蒼ざめる 1969.07 ・・・ 馬主の作家が交通事故で脳死に。脳の移植先はレース馬。目的はダービーで大穴をとること。ソルティシュガー「走れコウタロー」は1970年か残念。1969年都知事になった美濃部は公営ギャンブル廃止を訴えていたので、その反映かも。最後の数ページに注目。小説のレベルと作家のレベルが解体している。のちの実(略


 全集7には「おれは野次馬」というエッセイが載っている。週刊雑誌にテレビのことを書いている。CMのこと、ドラマのこと、バラエティのこと、実況中継のことなどなど(大橋巨泉への言及がいくつかあって面白い。二人は同年生まれ)。最後のところで、

「ぼくも実は、テレビの一部でありました。/お前は現在か。そうだ。ぼくも現在だ。しかし、テレビにしろぼくにしろ、ただの現在ではない、現在完了ならばただのをつけてもよいが、現在にはただのをつける必要はない。トロツキーのいった現在とは、意味が違うからだ。(P340)」

という。心意気やよし。ここに収録された短編を見れば、作家が「現在」を見ていたのは一目瞭然(であるのは、おぼろげながらもその年の記憶があり、同時代の本を後から読み、記録映像などで勉強して、血肉化しているから)。自分のわかる範囲で、作品の背景を補足。作家も時代もバイタリティがあった。
(残念ながら、「トロツキーのいった現在」はわからない。意味も、出典も。)