1949-52年にかけて連載されて1952年に単行本にまとめられた著者の60代半ばの長編。個人的な体験を思い出すと、中学一年生の時に旺文社文庫版を購入して読んだ。11歳の早熟な生徒が背伸びして(あるいは早期に厨二病に罹患して)、「真理」の探究を目指したのだろう。読んでも「真理」とは何かはわからなかったが、悠々自適でいさかいを起こさず、互いを尊重し理解する老人の友愛関係には憧れを感じたように思う。中学校の現実では、クラスメイトにどやされたり冷笑されたり、教師に殴られたりと、さんざんな目にあったからね。逃げ込み先として読んでいたのかもしれない。まあ、その時の心持は思い出しようもないが。
さて、小説といっても筋はないようだ。山谷五兵衛という人が、元古本屋の真理先生、素人画家の馬鹿一、書家の泰山、その兄で日本画家・油絵画家の白雲子を交互に訪問して、自分の体験とか芸術の心得とか相手のうわさ話とかをしあう。石や雑草ばかり描いてきた馬鹿一が人間を描きたいというので、白雲が自分の世話している娘をモデルにさせて、そのことを知らない馬鹿一が娘に惚れて、娘は拒絶する。まあ、山谷が皆の間を歩き回っているうちに誤解もとける。最後は真理先生の演説があって大団円。
並録は「兄弟」という短編で、「真理先生」のスピンオフ作品。金持ちの兄・白雲が売れない書家・泰山に書を書かせる。「飛躍」と「沈黙」。弟は出来が悪いと謙遜し、兄は(60歳を過ぎて)ようやく「なってきた」という。麗しい兄弟愛。
彼らに批判的な他者がいないとか、彼らの中で葛藤があって克服するとか、小説的な事件は一切おきない。それぞれが自分の芸術への努力をし、人生を全うに生きることを目指す。その姿勢が描かれる。「誠心誠意」とか「真剣に目的に向かう努力」、「ごまかしを認めない」などを芸術活動に示し、それがすなわち人生に対する態度になる。その努力を続け、人間の誠意を信じていけば、おのずと他人を明るい気持ちにさせ、心のわだかまりをなくす人格になり、そこまでいけば他人と自分の関係はうまくいくよ、そして自分の芸術も「できてくる」「みえてくる」というわけだ。ここらの教養とか修練とか人間完成という主題は、21世紀にはちょっと通用しないなあ。
積極的にいえば、彼らの関係は芸術共同体であって、ウィリアム・モリスが「ユートピアだより」で示した労働や家族のない社会における生活の芸術化を実践したコミュニティであるだろう。あるいは意地悪くいうと、福永武彦の「未来都市」で示したユートピア社会における集団芸術共同体であるともみえてくる。もちろん貴族出身の武者小路にはそういう経済や社会のしくみについてはさほど興味はないであろうから、モリスや福永が示した芸術共同体の行きつく先の恐怖などには無縁。それはまあしかたがない。なにしろ、真理先生は金のない生活をしていて、それに満足しているが、彼には話を聞きたいという数十人の後援会があり、ひとりの中年女性が世話をしている。そこには義援金の拠出とか家事労働など、支援のネットワークがあり、彼らは自分の労働の一部を供出しているのだが、真理先生も山谷も他人の世話に無頓着で、当然のことであると平然としている。そこまで思いをいたさなければならないのは読者のほうであって、作家には関係がない。
なので、21世紀にこの小説を想像的、創造的に読むのは困難。
ちょっと気になったのは、真理先生が次のように言うところ。
「自分が殺されたくないものは他人を殺してはならない。自分が殺されたい人だけが、他人を殺していい人だ(P8)」
さて、これはいかがなものか。殺人を許容するのはその人間の内面の決断というか覚悟において、というのはどうも。彼の決断や覚悟を他人は知ることができるのか。個人の内面の決断や覚悟で行動を評価するのは、他の人の人権侵害を許容できることなのか。いったい、真理先生のモラルは、個人の内面において判断されるものであって、まあカントの道徳律の考えに近い(東洋的な考えであるのだろうが、自分はそちらは詳しくないので、カントを持ち出してみたりする)。ここは自分には納得できないところ。殺人は個人の決断や覚悟に関係なく、全部だめというのが近代国家の正義でしょうに。冒頭にこういう考えが述べられたので、自分は真理先生の「真実の探求」による「人類の完成」という思想に全く共感できなかった。