odd_hatchの読書ノート

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柄谷行人「世界共和国へ」(岩波新書)-1

 岩波新書が装丁を変えて、数十年ぶりに「赤」にしたときの最初の刊本のひとつだった。2006年に出版されたときに、これはよく売れたのではなかったかな。著者が過去四半世紀かけて書いてきたこと(なかでも、国家・貨幣・交通・倫理・アソシエーションなど)の「普通の読者が読んで理解できるような」まとめ。著者のほかの本に比べればわかりやすいが、この新書には情報と思考が圧縮されているので、メモを取りながら読んだ方がよい。以下のまとめはかなり漏れがある。


序 資本=ネーション=国家について ・・・ 近代国家は資本とネーションと国家の異なる原理が補完しあいながら接合している。これらを揚期するにはそれがなんであるかを知らなくてはならない。以後、おもにマルクスとカントを参照しながら考える。
 国家には4つのタイプがある。A.国会社会主義共産主義)統制と平等、B.福祉国家資本主義(社会民主主義)統制と不平等、C.リベラリズム新自由主義)自由と不平等、D.リバタリアン社会主義(アソシエーショニズム)自由と平等。20世紀が終わってAの理念が衰退し、同時にDも衰退、Bの魅力がなくなり(もともとAの対抗として形成された)、Cのグローバル資本主義が席巻している。これは経済的ヘゲモニーを持つ国でだけ成り立つ。それ以外の国には搾取と破壊が起こる。
(発表された2006年は日本は経済的ヘゲモニーを持つ国で自他ともに認める国であったが、10年代に没落が進行し、経済ヘゲモニーは周辺国に移った。国内搾取と破壊が進行中。)

第1部 交換様式 ・・・ マルクスは生産様式で考えたが、ここでは交換様式で考える。生産では廃棄や環境などが漏れてしまうので。交換の様式には、1)互酬(贈与と返礼)、2)再分配(略取と再分配)、3)商品交換(貨幣と商品)、4)X(存在しないが理念としてある)の4つがある。これを社会構成体に照らすと、ネーション(互酬)、国家(再分配)、資本(商品交換)。資本制社会ができてからは、ネーションと国家と資本が「想像の共同体」として補完しあっている。資本制以前の社会を「世界帝国」、以後の社会と「世界経済」と呼ぶ(ウォーラーステインにならう)。
封建社会はアジア的帝国@マルクスの亜周辺に生じた現象で、ヨーロッパや日本にある。古代の国家や部族国家は孤立して存続していたのではなく、帝国と関係しつつその周辺や亜周辺に位置していた。封建制は主君と家臣の双務的な契約関係=互酬原理で成り立ち、集権化や絶対権力を生み出さず、分散化・多中心化で統一を妨げ、戦争体系としてあった。)

第2部 世界帝国
共同体と国家 ・・・ 古代から中世までの概説。国家は共同体が発展したのではなく、共同体と共同体の間に発生する。保護や支配のツールとして文字言語、宗教、通信網などを利用。ある共同体(次第に支配層では共同体はなくなる)が他の共同体を支配するために、略取と再分配を行う(被支配層からは互酬にみえる)。被支配層では互酬の交換が継続する。中心(エジプト、中国、インド)ではアジア的専制国家になり、その周辺では集権制が弱いので絶対主義国家になる(古代ギリシャ、中世イギリス、日本など)。集権制の弱く互酬共同体の強いところでは都市ができ、資本主義を超える運動(コミュニズム)の母体になる。
(中国の専制国家の支配は陸伝いでは貫徹したけど、海を隔てた日本では律令化がすぐに形骸化。農村の互酬共同体が強くて京都の集権化が徹底できず、地方豪氏の主従関係に基づく封建化(分権化)が続く。アジア的専制国家の影響が残りつつ、封建制があった。これは西ヨーロッパでも同様で、亜周辺の特徴。ここらへんは與那覇潤「中国化する日本」(文芸春秋社)によく似た見立て。こちらが先行。)

貨幣と市場 ・・・ (ここは先行の著作で繰り返し語っているところなので省略。古代では農業共同体は商業を軽蔑してきた。中世になって貨幣経済が浸透すると、貨幣の力(国家や教会の力とは別の力)で都市が自立する。貨幣経済がさらに浸透すると、都市の優位性はなくなり、都市ブルジョアは王権と結合して封建的諸制度を廃止する。ここで国家が商業原理を承認し、資本と国家が接合する(たがいに相手を自律したようにみせて)。この資本=国家にネーションを加えてできたのが、フランス革命後の近代国家なわけだ。)
普遍宗教 ・・・ 宗教が普遍化するのは(古代)国家の普遍化に随伴する。多様な神がひとつの神の置き換えられる。そのようになってから普遍的な宗教が都市(間共同体)で生まれる。それは商人資本主義、共同体、国家を拒否し、互酬的な共同体、資本の蓄積が発展しない市場経済を志向するものになり、アソシエーションが宗教において現れた。その倫理的な社会運動(政治的経済的運動ではない)には注目すべき。普遍宗教が国家宗教になると、国家に従属して体制を補完するようになる。
(イエスの語録に、商人資本主義や共同体の拒否、互酬的共同体の志向を読み取るのが目からうろこ。これまで自分はマイノリティ解放の運動的なところしか見てこなかった。)


 これまでは、 吉本隆明「マルクス」(光文社文庫)の説明で国家や資本、宗教などを考えていたが、どうも吉本らの説明はあやしいものだと考え直している。吉本の説明では、人間の「本質」部分を外に投げて、再度取り込む。その際に再び取り込んだ「本質」が外化して、神や国家や法のような象徴的なもの、幻想的なものになるという。そういう「本質」「自然」「本来的ありかた」みたいなものを仮定することがなにか欺瞞になるのではないか。そういうのが原始社会において「あった」とみなすことが遠近法的な錯誤になっているのではないか。
 むしろ柄谷の説明のように、共同体の間でできた国家が共同体に支配用のツールとして文字言語・宗教・通信網などを押し付け、それに慣れたときにみずから選択して作り上げたのだという認識の転換が起きたとかんがえたほうがすっきりする。その考えだと、人間の暮らしには「本質」「自然」「本来的ありかた」などなくて、その時その場所の条件にあわせて、「よりよい」を選んで(強いられて)いる。原始社会でもそうで、東アジアの辺境の島々に移住してきた人も、本来性をもって生活したのではなく、生活しているうちにさまざまな特長を供えるに至った。

 

 2018/11/12 柄谷行人「世界共和国へ」(岩波新書)-2 2006年に続く