1986年から1988年までの連載をまとめて、1989年に上梓。
固有名をめぐって
単独性と特殊性 ・・・ 「単独性と個別性について」@言葉と悲劇参照。
固有名と歴史 ・・・ 単独性は主観や内面のなかには見出されない、むしろ隠蔽する。単独性を意識するとき、固有名で呼ぶ。固有名を取り除くことはできない(確定記述に押し込められない)。
(サルトルの反ユダヤ主義批判はユダヤ人を特殊にいれている。差別問題を特殊-一般で見てはならない。被差別者の単独性をみるべきで、歴史的に考えるべき。この指摘は重要。)
名と言語 ・・・ 固有名は閉じられた規則体系(共同体)に還元できない。言葉の「社会性」を固有名は意味する。ハイデガーは主語としての「誰か」を任意のxとすること、述語を優位におく。それは固有名の単独性を無視している。ラッセル、ソシュールも同様。
可能性と現実性 ・・・ 固有名は名を伝えるものと受け取るものに、世代的な非対称的なコミュニケーションがある。固定指示することは他者とのコミュニケーションにおける関係の外面性非対称性を消し去ることができない。歴史が現実的なのは諸可能性のなかにおいて事実だからであり、現実は諸可能性のひとつの選別と排除を前提にしている。
関係の偶然性 ・・・ (ライプニッツ、ラッセル、九鬼周造らの関係性の議論。自分にはわかりません。)
(固有名と関係性のことは哲学に興味のないものにはそれこそ関係ないよと思いたいところ。この抽象的な議論はよくわからない。でも、政治や社会では個々の人間におきる問題を一般化しがちで、それによって当事者である<この私>、単独者がおきざりにされることがある。例は災害からの復興で仮住まい屋を追い出される人がいるとか、差別撤廃を主張する人たちから忘れられる被差別者がいるとか、自然保護を政策としながらサンゴ礁が埋め立てられるとか。そこでは当事者である<この私>が一般的な市民や国民の類になったり、固有名を持つ<この場所>が一般的な海や山に還元されている。単独性、固有名がないがしろにされる理由がそこで作られるわけだ。)
超越論的動機をめぐって
精神の場所 ・・・ デカルトの読み直し。「コギト」は「私は考える」という内省とは異質。オランダという市場にして荒野に異邦人・何物でもない人間として、共同体の中での思惟そのものを疑う。超越的な立場を退ける。見出すべき真理は多様性を取り払ったところにあり、その武器が数学・構造主義である。(「機械」「精神」の説明はよくわからない。通常、デカルトの機械は時計というモデルであるが、大切なのは方法。機械を考えることでデカルトは物質と生命の恣意的な区別をなくした。)
神の証明 ・・・ 「疑うこと」と「思惟すること」は異なる。前者は共同体あるいは同一性から外にでること。疑いは差異がなければ、あるいは他なるものがなければ起こらない。デカルトにとって神は絶対的な差異性であり、疑いを引き起こすもの。(客観性は感覚に反する。主観性によって構成される。感覚ではなく関係(法則や数式など)で事象をとらえると、客観が可能になる。この指摘はクーンに近しい。)
観念と表象 ・・・ デカルト主義者としてのスピノザ。観念から表象(想像知)を取り除くデカルト。観念と概念の違い。普遍性と一般性の違い。(よくわからない)
スピノザの幾何学 ・・・ 無限は無際限な超越者ではなく、世界と閉じる観念。ということで、デカルト、スピノザ、ブルーノ、ライプニッツらの無限の概念や観念を語る。(よくわからない)
無限と歴史 ・・・ スピノザの無限。無限に超越はありえない、外部はない。無限である神は(超越がないので)内在的。(よくわからない)
受動性と意志 ・・・ スピノザの自然史。(よくわからない)
自然権 ・・・ スピノザは単独者としての個は自然権を国家に譲渡できないと考える。スピノザの国家はホッブスの国家(個が自然権を譲渡できるもの)とは異なる。ホッブス、ルターの国家は「共同体」主義で、スピノザ、マルクスの国家は「社会」主義。個-共同体と単独者-社会は区別するべき。
超越論的動機 ・・・ 経験的、心理的な主体・個を批判するスピノザ、デカルト、フッサール。
超越論的自己 ・・・ 目的論的な歴史観である歴史主義を批判する、結果を原因とみなす「認識の遠近法的倒錯」をえぐりだす系譜学。ニーチェ、マルクス。そのあとの超越論的な主体や動機はよくわからない。
このあたりはどのページも「よくわからない」ので、論評や感想はなし。著者の見つけたいくつかの概念を使うと何でも説明可能になるけど、それを生きること・実践することは困難になるという感じ。「交通空間」や「社会」はそう簡単にあらわれないし、「単独者」に誰もがなれるわけではない(というか、イエスと、あとだれが「単独者」を生きたのだろう)。
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2018/12/04 柄谷行人「探求 II」(講談社)-2 1989年に続く