1974年刊行の第一評論集。著者30代前半の1972-73年に書かれたもの。たしか、初出時にはあまり注目を浴びず、80年代になって「構造と力」がベストセラーになってから注目されるようになった、と記憶。
マクベス論――意味に懸かれた人間 ・・・ ギリシャ悲劇とも違い、ほかの自作の悲劇とも異なる「マクベス」の読み直し。マクベスにしろ夫人にしろ、運命に立ち向かうとか神に挑戦するという悲劇の主人公のモチーフはなくて、意志とか自意識はなく、自分に当惑し、起きていることに驚いている。自分を見つけることを拒否したのだという(そこから連赤事件の実行犯のように観念に取りつかれ、自分(およびその行為)に意味付けできず深みにはまる「現代的」人間を17世紀に見出せる)。おれの力量ではここまで。通常、魔女たちのセリフである「きれいはきたない、きたないはきれい(Fair is foul, and foul is fair)」は難解とされるが、「きれい(な目的)はきたない(手段)、きたない(目的)はきれい(な手段)」と著者の注釈が加わると、マクベスと夫人のマキャベリズムが集約されているのがわかり、謎でも神秘でもなくなる。この読み取りを教授してくれたことに感謝。
夢の世界――島尾敏雄と庄野潤三 ・・・ 夢を狂気や未開の思考と結びつけることがあるが、それは外側から見た場合。夢(や狂気・・)は内側から見ると世界のリアルであり、特徴は世界との距離がないこと。健常者はあいまいぼんやりした現実を見ているが、それは距離をおいて世界を対象化しているから。夢(や狂気・・)の中にいるときに矛盾や対象化は起こらない。想起するときに、前後や因果の関係を持ち込んで物語をつくるから(そこで因果の齟齬や矛盾に気付く)。想起は言葉にすることによって起こり、文体が意識を規定する(あるいは文体に意識が強く引きずられる)。日本の小説家でこのような夢を書いた二人について。
私小説の両義性――志賀直哉と嘉村儀多 ・・・ ふたりの小説には自我や他者がない。意識は狭い世界にいて、外部から眺める客観性(恣意性)を持たなかった。狭い世界で彼らを支配していたのは気分(不快や恥ずかしさ)。その代りに獲得した自己完結性。
歴史と自然――鴎外の歴史小説 ・・・ さして長いものではないのにたくさんの情報があって読みとりきれない。自分の琴線に触れたことを箇条書きで。
・行為のあとに動機が仮構される。内面が行為を規定するよりも、行為が内面を規定するといった方がよい。行為において、強制が恣意に、恣意が強制になることがある。
・歴史は資料のまとまりから意味を見出し整理するが、エピソードはまとまりや中心を書いていて、歴史の「意味」とは別の意味を喚起するする力を持つ。歴史を見るとき、整合性や合目的性を付けようとする。そういうのを「物語化」という。
・「やってしまってから」を書く作家、「やってしまうまで」を書く作家。
以上のような歴史や内面を見る作家とは異なるところにいる森鴎外の読み取り。
寒山拾得考 / 平常な場所での文学時代との結びつき / 淋しい「昭和の精神」 / ものと観念 / 掘立小屋での思考 / 自作の変更について
薮の中 ・・・ 「『藪の中』は謎を提示するが、謎の中を生きるように強いはしない」
小説の方法的懐疑 ・・・ 物語や観念に依存しない古井由吉と小川国夫の新しさについて。
人間的なもの ・・・ 今日の文学(者)は「倣慢というのは、自分の用意したもの、自分の理解しうるものの領域の外に一歩でも出ない」ところにいて、「人間的なもの」に懐疑することがない。懐疑する文学者として夏目漱石、柳田国男。
場所と経験 ・・・ 均質均等な空間でのできごとは擬似的(シュードー)なもので、何の実質を持っていない。経験した気になっているだけで、意味づけだけが性急に要求される。
生きた時間の回復 ・・・ 見通しが悪くなったことで人が活気を持つように見えた(というのは1973年のオイルショックの話。21世紀では見通しが悪くなると、この国は活気を失う)。
本読みのはしくれとして、本を読みながらいろいろ考え、文章に残している。かなりの数(約2000)がたまったので、中級くらいにいると思うが、これを読むとかなわないと心底おもう。よくもまあこういう発想をするものだと驚愕し、いわれてみればそのとおりと腑に落ち、それにまったく思い至らないことに自失してしまう。なので、感想は特になし。勉強になりましたと、頭を下げるだけ。例えば次の指摘。
「私は、自意識、近代批判、心理分析、言語論、思想史、そういうもので成り立つ批評に興味がない。それらは″人間″をとらえるかわりに、あるいは″私″を内観しようとするかわりに、概念的に切りすてることでそれを整理してしまっているようにみえる(P279)」
ああ、まさに「興味がない」とされたやりかたで、これまで文学を読んできたなあと頭をかく。とはいえ、自分はこの文章に続く「個人が特定の時代のなかで一回的に生きているということそのもののリアリティと、同時にそれにもかかわらずなにか永続的な形相においても生きているということのリアリティとが、微妙に交錯しあう両義性」には関心をもっていないので、著者の方法を取り入れるのがたぶんできないだろうなあと予感する(実際、初読から四半世紀を過ぎて、ほとんど内容を覚えていなかったし。ただいくつかの指摘がのちに「自分の考え」になっているのを発見した。やっぱり影響を受けたのだろう)。
「行為のあとに動機が仮構される」からウィトゲンシュタインの「人は考えてからしゃべるのではない。ただ単にしゃべるのだ(超訳)」まで、さほど遠くないように思えて、のちの「探求」はここに先取りされているのだなあ、と思った。
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