odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

コナン・ドイル「シャーロック・ホームズの帰還」(新潮文庫)-1

 ホームズの人気は衰えず、長編「バスカヴィル家の犬」を出しても読者は満足しない。そこで再び短編を書くことになったが、「回想」で殺してしまったとなると、つじつまがあわない。そこでコナン・ドイルは一世一代の手を打つ。それが1905年刊行のこの短編集。
 ちなみに、1907年に モーリス・ルブラン「リュパン対ホームズ」が書かれているから、すでにホームズの名声はヨーロッパ全域(とアメリカと日本)に及んでいる。


空家の冒険 The Empty House ・・・ ある貴族が射殺される事件が起きた。ワトソンはこんな時ホームズがいればとじれったく思う。そこに思いがけず、ホームズが帰還。空き家の冒険に誘う。そこからはホームズの部屋が見える。深夜の待ち伏せ。窓からみえる姿が実はダミーでしたというのが、唯一の「トリック」。そんなことより数年ぶりの帰還(途中チベットペルシャを訪れる。いずれもイギリスの準植民地)を寿ぎましょう。ホームズを助けたバリツは、1.柔術の誤訳、2柔術をベースにしたイギリスの護身術、3.ポルトガル語のバーリ・トゥードのなまり、の3つの説がある。

ノーウッドの建築士 The Norwood Builder ・・・ ノーウッドの建築士の家で火事が起き、死体が発見された。その前日に、建築士はある弁護士に全財産を譲る内容の遺言書を作っていた。この弁護士を警察は追いかけるが、そうではないと訴える姿にホームズは犯人ではないと確信する。しかし捜査するも何も得られない。気落ちするところに、警察は弁護士の指紋を現場で発見したと報告した。大喜びのホームズ。このころには指紋がユニークであり、犯罪捜査につかわれるようになったのだね。江戸川乱歩「明治の指紋小説@探偵小説の謎」を参照。

躍る人形 The Dancing Man ・・・ 最近結婚した妻がおかしい。それもアメリカから手紙がきて、家の周囲に踊る人形の落書きが書かれるようになってから。これがそのサンプルです、と受け取ったホームズが徹夜で考えて、翌朝屋敷にいく。しかし、そのときには主人は射殺され、妻も重傷を負っていた。若い妻が不審な行動をとるのに夫が悩むのは「唇の捩れた男」の再話。踊る人形の暗号とその解読はポオ「黄金虫」パスティーシュ。密室で二人が死んでいて、しかし銃弾が三つというのはのちによく使われることになった謎。ろうそくの蝋のあとをみて風が吹き込んだか否かとみわけるのも、この当時の定番。小ネタがうまいので、古臭い仕掛けも新しくなった(まあ当時にしては、だけど)。なお、1900年前後、アメリカではギャングが市政をのっとるというのは頻繁に見かけた事例(羽仁五郎「都市」岩波新書など)。1930年代のハードボイルドが市政を牛耳るギャングの抗争をテーマにすることがあった(ハメット「ガラスの鍵」ラティマー「モルグの女」など)。

美しき自転車乗り The Solitary Cyclist ・・・ 美しい自転車乗りのお嬢さん(この時代の最新モードだったのだろう。まだ自動車は市販されていない)が、田舎の家庭教師になったら、得体のしれない男に付きまとわれていると相談にきた。忙しいのでワトソンを派遣したが、だめな捜査とホームズは一蹴。ホームズ自身がでかけることにしたが、お嬢さんは誘拐されてしまった。探偵小説というよりハードボイルドだな。パブにはいって情報を聞き出すとか、悪漢に襲われて拳闘になるとか、誘拐されたお嬢さんの危機に間一髪で間に合うとか。

プライオリ学校 The Priory School ・・・ 寄宿舎制学校の校長が蒼い顔で飛び込んできた。貴族で海軍大臣の息子が寮から失踪、ドイツ語教師ハイデガーもいない。内密にという貴族の指示で三日も放置された事件。いやいやながら出立したホームズは自転車(ここでも!)の痕を追いかける。牛はいないのに、足あとを現場に見つけるが、人の足あとはない。途中ドイツ語教師の撲殺死体を発見する。事件の始まりからホームズの捜査の過程、そのうえ解決の内容はほとんどロス・マクドナルド。長編も短編も古めかしいのに、この一編はとてもモダンなストーリー。派手なトリック、意外な犯人はないが、ストーリーの組み立てはすばらしい。
(思い返せば、1890年代は西洋で自転車ブームが起きて、上流階級の金持ちがこぞって自転車に乗っていた。)

黒ピーター Black Peter ・・・ 元船乗りで粗暴な男が「船室」と呼ぶ離れの小屋で殺されていた。銛で貼り付けになっているという凄惨なもの。警察の初動捜査の失敗を取り返すべく、ホームズは現地に向かう。ジンの瓶と二つのグラス(なぜ指紋調査をしない?というのが乱歩の疑問。江戸川乱歩「明治の指紋小説@探偵小説の謎」を参照)。当時は北欧やイギリスは捕鯨をしていて、あざらし漁が職業になっていた。事件の背景は北氷洋を舞台にした海洋冒険譚。ドイルはこの種の話が大好き。

犯人は二人 Charles Augustus Milverton ・・・ もうすぐ結婚するという貴族のお嬢さんから脅迫されているという相談があった。ホームズはゆすりと取引することになったが、相手は拒否。ホームズは自分は犯罪者の素質があると自嘲しながら、楽しそうに深夜ゆすりの家に忍び込む。そこで起きた意外なできごと。ホームズが犯罪に手を染めるのは、彼のいる階層は「ボヘミアの醜聞」のときのような上流階級には会えても、下流階級にはいけないことを意味している。人の家に入れないとなると、ホームズもハードボイルドの探偵みたいなことをするようになる。


 「踊る人形」「金縁の鼻眼鏡」に手書きの暗号や現場の見取り図が挿入される。およそ事件の解決には役に立たない資料が小説に添付されるようになったことに注目。犯罪の現場や物証を目で見えるようにしたこと、それを読者が歓迎したのはなぜだろう。
(と言いながら思い起こせば、ポオ「黄金虫」にすでにあった。ディケンズが小説を発表するにあたっては、挿絵画家と入念に打ち合わせをして、キャラクターをしっかりと造形し、先の展開を予告していたのを思い出すと(「エドウィン・ドルードの謎」解説)、ドイルの創意というわけではなかった。まあ、のちの探偵小説作家は積極的に模倣したのであるから、むしろヴァン・ダインやクイーンの長編で検討したほうがよい話題かも。)