odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

田中眞「世界史夜話」(文健書房) 昭和30年代の大学入試世界史は自己修養とトリビア暗記が必須

 これはたぶん入手困難な一冊。1958年、昭和33年に出たのがその理由であるし、執筆者が高校教師で雑誌「高校時代」と「英語研究」に連載された文章をまとめたものだから。余談になるが、戦後に学研と旺文社がずっと受験雑誌を出していて、世の高校生は受験なんてくだらぬものをと愚痴を垂れながら、雑誌を買って少しの息抜きとたくさんの勉強をしていたのだった。廃刊になったのは平成になってからと思う。受験勉強の情報を入手する方法が増えたからだろうし、たぶん携帯の通話料金のために使える金が減ったためだろう。

 閑話休題。なぜ生まれる前に出版された入手困難な本をもっているかというと、一時期高校教師を務めていた叔父が買ったと思われるものが家に置いてあったから。11歳の小学6年生のときか、12歳の中学1年生のときに手にしてみるととても面白く、中学卒業まで繰り返し読んだ。「世界史」を標榜するだけあって、ギリシャ、ローマの話から、中国の春秋戦国時代から唐の終わりまで、イスラムやスペインの話から宗教革命、フランス革命までを扱う。政治家、軍人のみならず文化人、作家、音楽家が登場し、女性や子供の逸話までも網羅する。話題の広範なところと、小話の集成でくすっと笑えるところが気に入った。それこそ中学生の時は、世界史はこの本で、日本史は司馬遼太郎の長編で覚えたようなものだ。そのかわり、本書は情報が断片なのと、後者は特定時期しかあつかわないのとで、歴史の流れを把握するまでにはいかなかった。
 そのような個人的な思い出に浸るのもいいのだが、内容のことを書こう。昭和33年前後の高校生向けの文章の格調の高いことに驚く。この人はディオゲネスが好きで何度も登場。たとえば

「またある時ディオゲネスは、ひる日なかアテネの街を、撒脱は灯をつけて持って歩いていました。ひとが不思議に思ってそのわけをたずねると、「私は人間をさがしているのです。」と答えました。/この「人間」というのは、「正直な人間」とか、「俗っぽくない人間」とか、「慾ばりでない人間」とか、「政治性のない人間」とか、色々な風に考えて見ることが出来ます。(P49)」

など。通読すると、著者は戦前に新渡戸稲造の講義を聞いたり、アドヴァイスをもらったりしているらしく、なるほど大正の教養主義の影響下にあることがわかる。上の例のように、「人間」とか「人格」の向上が最優先の問題である。そのためには、歴史の偉人の人生を見ること、彼らの言葉(できれば作品や映像)を見ることが大事。そこでは文体も重要な手段であって、格調高く、真摯であらねばならない。たとえ行動において無軌道なところがあっても、教室での秩序や教師への態度がよければ無問題。まあ、こんな感じ。そこでおもいだすのは、斉藤喜博「君の可能性」(ちくま文庫)であって、だいたい同世代の著者の態度は共通している。
 と賛辞を連ねたけど、当時の高校生が人格高潔であるかというとそういうことはなく、読者であっただいたい昭和一ケタと呼ばれる世代が人格高潔、理想主義的な生き方をしたかというとそうでもない。
 さて、問題もある。ひとつは上記の目的達成のためにさまざまなエピソードを書いた結果、些末にこだわる傾向がある。最後にたくさん並べられた人、作品、言葉を結べという練習問題がある。これがまたマニアックな選択で、河出文庫の世界史にも出てこないような人、作品、言葉が並べられる。これが当時の大学受験の世界史で必須の知識であったと思うと、当時の生徒に同情する。
 もうひとつは、アメリカの話、とくに独立戦争がないとか、ロシアや中国の近現代史がすっぽり抜けていること。これでは社会の問題や不正をとらえたり、抗議したりする力を育てることができないなあ。それとあわせて近現代の知識が抜けているので、自由と民主主義の記述がないこと。政治の話がでても、諸子百家やローマの皇帝たちで、現在の政治の参考にはならないし、ディオゲネスが好きなところからも、現状維持や他人頼みを助長するような印象も。
 俺がそういう視点を持つようになったのは、高校の授業はほぼ参考にならず、大学入学以後に地元の社会問題に首を突っ込むようになってから。そのときから世界史をこの本のように理解することはできなくなった。

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