odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ハインリヒ・シュリーマン「古代への情熱」(新潮文庫) 19世紀にバルト海貿易でビジネスマンが成功するまでは啓発的。しかし発掘作業は強奪的で批判されている。

 ハインリヒ・シュリーマンは立身出世の人。高等教育を受けることができず、丁稚奉公から事業で成功し、幼少時代からの夢を実現した。その社会的成功、学問の達成、語学の天才、克己と自己実現は子供向けの伝奇としてよく読まれた。
 この「古代への情熱」は高校生の時に読んだが、内容をすっかり忘れていたので、今回再読。

 とても失望した。
 シュリーマンは1822年生まれ。幼少の時の母が死に、父がスキャンダルを起こし、親戚を転々とする。丁稚はブラック企業並みの過酷さ。船員になって逃げだしたが、難船にあい、オランダに難民のように定着。貿易会社に勤めるとめきめきと頭角を現す。そして40歳までに十分な資産を獲得する。
 シュリーマンの出身はドイツであるが、成功をもたらしたのはオランダの貿易会社に就職することによって。アムステルダムは西洋屈指の貿易都市であった(こことロンドンくらい?)。ときは西洋の帝国主義の時代であって、ものがオランダに集まる。シュリーマンはそれをロシア・ペテルブルグに運ぶ。まだ帝政であり、工業化が進んでいない土地では、西洋の文物は高価に販売できる。物理的な距離の生み出す差異が価値をつくり、商業が急成長したというわけだ。そこに乗っかることのできたシュリーマンの才覚がすごい。
(これがもう少し後の19世紀後半になると、商業資本よりも工業資本に投資した方が成功するようになる。ハウプトマンの「日の出前」「織工」などがその事情を裏書きしているし、ヴィトゲンシュタインの祖父が製薬で成功したのも、そのころ)。
 「古代への情熱」の第2部は、他人の手になるもの。シュリーマンが書いた発掘記録を参照して、数次にわたる発掘事業を紹介する。学術的、歴史的な詳細な記述が続く。ここは古代ギリシャ史や古代ギリシャ叙事詩に興味がないとへこたれる。途中で完読をあきらめた。
 今日ではシュリーマンの発掘作業には批判が多い。自分が読んで感じたところを箇条書きにすると、学問的慎重さがなくて思い付きで発掘作業を行い、重要と思わない遺跡は十分な調査を行わずに破壊し(なのでシュリーマンの死後トロイアの遺跡はシュリーマンの発見したものとは別のものであると認定された)、トルコの要請にかかわらず発掘した品々をイギリスに持ち帰り、発掘品の扱いに慎重さを欠いている。ときが帝国主義であったので、国の優劣関係を発掘先に持ち込み、遺跡のみならず現地の雇用人に対して強権的であり、強奪的であり、宗主国が植民地にたいするような非対称的な関係を持ち込んだ。
 思えば、シュリーマンの動機も幼少時代に読んだ「オデュッセイア」「イーリアス」に書かれた通りの都市が残っているという思い込みであり、学問の厳密さを身につけず、本国の学会の意向を無視して自分の資産を使って強引に発掘調査をした。ハタ目で見れば、古代ギリシャ叙事詩に入れ込んだトンデモさんなのだ。金を持っているから暴走を止められない。たまたまシュリーマンの発掘は膨大な発見をもたらしたわけで、生前中は権威を持っていたが、彼のやり方は世紀が代わってから批判されるようになった。それは当然でしょう。シュリーマンのこの自伝もかつて顕彰されたようにはもう読むことができない。
 考古学の歴史はあまりよく知らないが、ナポレオンのエジプト遠征を契機にしたエジプト学の流行に端を発しているのかしら。それはヨーロッパに波及して、資産をもっている人たちがシュリーマンのような遺跡発掘調査を行うことがあった。有名なのは世紀が変わってからのカーナボン卿(ツタンカーメン王の墳墓の発見で有名)だろう。あと、指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの父やアガサ・クリスティの二度目の夫が同じような発掘調査を行う考古学者。これらの流行を反映したのがイギリスの冒険小説。とくにハガードのアラン・クォーターメインもの
 本書よりも、内容から連想した本のことばかり書いてしまった。