odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ジャック・ティボー「ヴァイオリンは語る」(新潮社) 大バイオリニストがエスプリで書いたファンタジックな自伝。

 ジャック・ティボー(Jacques Thibaud, 1880年9月27日 - 1953年9月1日)はこの国の西洋音楽愛好家に愛された。クライスラー、フーベルマンが巨匠とすると、この人は洒脱なエスプリ。近代フランスの作品、それにカザルス、コルトーと組んだトリオによる三重奏曲の録音で人気を博す。戦前に2回来日し、それぞれで数十回のコンサートを持った。戦後、1953年に3度目の来日のために飛行機で移動中、墜落事故で亡くなった。

 この本はティボーによる自伝。いつ書かれたかはこの本ではわからない。ちなみに読んだのは、昭和28年(1953年)に新潮社からでた「一時間文庫」という叢書。訳者は西條卓夫・石川登志夫で、最近白水社からでたのは粟津則雄訳。入手不可とおもったら、ネットでダウンロード販売していた。
https://www.gutenberg21.co.jp/violin_thibaud.htm
 自伝とはいいながら書かれたのは18歳のデビューまで。記述に即して半生を見ると、1880年ボルドーの生まれ。父は地元のオーケストラのバイオリン奏者。腕の事故で退団し、家庭教師になる。母は2歳の時に死亡。兄弟は6人で、うち二人が早世。4人はいずれもパリ音楽院に行く。みな優秀な成績だったようだが、教職についたり老いた父の面倒を見たりで、音楽史に名を残すのはジャック一人。貧乏な家であったが、ミューズに気に入られ子供のころから天分を発揮する。十代でパリ音楽院に行く頃は極貧の生活。それでも同世代の若者との共同生活は楽しい。オペレッタのオーケストラでバイトし、コンセール・ルージュで軽音楽だのを演奏する。そこにはヴェルレーヌドビュッシーもきて会話したり、食事を共にしたり。あるとき、大指揮者で自前の楽団を持つエドゥアール・コロンヌに見初められ、コンセーヌ・コロンヌのトップ奏者になり、サン・サーンスの大作「大洪水」の初演でバイオリンソロを披露し、大成功を収める。
 なるほど20世紀初頭には音楽教育システムが完成されていたのであるが、こういう奇縁が左右することもあるのか(現在でも盲目のピアニストの演奏のテープをあるジャーナリストが知り合いの指揮者に送ったら、自分のコンサートのソリストに招聘しデビュー。以後、幾多のTV番組が作られ、世界的なコンサートで優勝するに至るという話もある)。マナーにはいいかげんなカフェの演奏家(しかしパリ音楽院在籍中)が見出されたというのが、神話的。
 神話的と思わせるのは、ティボーの書き方にもあって、日付や場所には無頓着。事実を描くよりも、そのときにいた自分の感情やファンタジーを語る方に筆を向ける。幼児のころからガラス窓(このころには地方の家にも普及していたのか)を見つめていると謎の男に話しかけられ、芸術の眼を開かせる。のちにモーツァルトと名乗るこの男はティボーの勉強や趣味を方向付けるきっかけになる。あるいは人生の節目ごとに現れるベートーヴェンのロマンス・ト短調。この曲を聴いてバイオリン奏者を志し、パリの安下宿で貧乏人を結び付け、最初のコンサートのアンコールで披露する。コンセール・ルージュの演奏後、くたびれたコートを着た老人に話しかけられ、なじみの居酒屋でグダグダ話を聞かされる。それは晩年のヴェルレーヌであった(会った半年後に死去)。若き日にドビュッシーと食事を共にし、彼の一挙手一投足に夢中になる。「牧神の午後の前奏曲」試演に立ち会い、聴衆が喧騒するのを目撃する。ベル・エポックが始まったころのパリで新しい息吹が生まれているのがよくわかる。
 そのうえ、この人はみごとなエッセイの書き手。一エピソードは数ページで終わるが、単独のスケッチやコント、掌編と呼べるできばえ。トリオを組んだカザルスやコルトーも本を書いているが、彼らと異なるのは、ティボーは観念のことを書かないこと。芸術とはなんぞや、国家とはなにか、貧乏暮らしの不条理さなどはまず触れない。20世紀の前半に活躍した音楽家演奏家は西洋にいる限り政治に関わったものだが(カザルスのアンティファシズムコルトーの翼賛)、この人はパリにいながらまったく翻弄されなかった。意識的な選択とは思えない、自然体が可能にしたのだろう。
アルフレッド・コルトオ「ショパン」(新潮文庫)
ホセ・マリア・コレドール「カザルスとの対話」(白水社)
ホセ・マリア・コレドール「カザルスとの対話」(白水社)-2
アルバート・E・カーン「パブロ・カザルス 喜びと悲しみ」(朝日新聞社)
 ジャック・ティボーはバイオリン演奏法のフランス・ベルギー学派のひとりとされる。指が回って技巧をひけらかすのではなく、音量や重厚さで圧倒するのでもなく、鋭く切り込んで本質をえぐりだすでもなく、音色と節回しの華麗さや洒脱さを旨とする。1世紀前の人なので、技術や語り口は古くなってしまったが、ベル・エポックの雰囲気を味わうにはこの人に限る。推薦する演奏は、ドビュッシーフォーレ、フランクのバイオリン・ソナタ。あと小品集。
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ベル・エポックの雰囲気を味わうには、あとコンセール・ルージュの先輩カペーが主宰したカペー四重奏団が双璧。とくに、ドビュッシーラヴェル弦楽四重奏曲。)

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