カール・ベームは1894年オーストリアのグラーツに生まれた指揮者。この国には、1963、1975、1977、1980年に来て、ベルリン・ドイツ・オペラやウィーン・フィルと演奏し、いくつも名演を残した。CDやDVDで確認できる。自分は完全出遅れで、1980年の演奏をTVで見るか、ザルツブルグ音楽祭の演奏をFMで聞くかしたくらい。印象深いのは、1980年の大晦日に放送されたベートーヴェンの交響曲第9番の演奏。翌年に同じメンバーのセッション録音がLPで販売されたのだが、冒頭からずっと遅いテンポだったのに、終楽章コーダで突然通常の早めのテンポになる。でも、FMのライブ演奏では遅いままだった。そこが気になっていて、できればライブ盤をもう一度聞いてみたい。
<追記2019/12/23>
約40年ぶりに夢がかなった。上記コーダは通常テンポ(若干遅め)だった。俺が記憶を捏造していたのだなあ。
ベートーヴェン交響曲第9番「合唱」
ピラール・ローレンガー (ソプラノ)/ハンナ・シュヴァルツ(アルト)/ホルスト・ラウベンタール(テノール)/ペーター・ウィンベルガー(バス)/ウィーン楽友協会合唱団/ウィーン交響楽団/カール・ベーム指揮/1980年7月18日 ブレゲンツライヴ
www.youtube.com
さて、この本は1967年12月にベーム邸を訪れたハンス・ヴァイゲルというライターが長時間のインタビューを行い、再構成して一冊の本に仕上げた。翌年2月にはまとまっていたから(まえがきの日付による)早い仕上げ。
邦訳タイトルは「回想のロンド」だが、元タイトルを直訳すると「私は正確に思い起こすのだが・・・」となるそうだ。なるほど、当時71歳のベーム翁の記憶は大したもので、いつ・どこで・だれとどの曲を演奏したのか、というのがこと細かく書いてある。
彼は第1次大戦に徴発されて輸送部隊にいたのだが、どうも真面目に任務を全うしたとはいえず(まあ部隊の兵士全員がそうだったから仕方がない)、前線にでなかったのでレマルク「西部戦線異状なし」(あるいはバルビュス「クラルテ」)のような凄惨な目にはあわなかった。戦後はグラーツの歌劇場に潜り込み、指揮の機会を与えられるたびに成功した。ミュンヘンでブルーノ・ワルターで出会ったのが出世の糸口になり、先輩クナッパーツブッシュとやりあいながら研鑽をつむ。このときの音楽上のメンターになったのは、アルバン・ベルクとリヒャルト・シュトラウス。彼らのオペラを上演するとき、助言をもらい、成功する。戦前は、ウィーン、バイロイト、ハンブルクに活動を広げる。しかし、ドイツの敗戦で2年間ほどの活動停止。本人は50歳を超えているのに無収入になり、専業主婦だった奥さんが歌手の経歴を生かして個人レッスンをして家計を助ける。活動再開後には、ブエノスアイレスのコロン劇場で重要なポストをもっていたが、1954年ウィーンの歌劇場の総監督になる。そのとき60歳。キャリアの頂点に立つかと思われたが、カラヤン(のとりまき)の陰謀(?)で1958年で辞去。以後は特定のオケやオペラハウスの監督になることはなく、フリーランスになったが、過去の経歴のおかげか高額のギャラで一流オケだけを指揮するようになる。1960年代はヴィーラントと組んだバイロイト音楽祭、そして夏の休暇中のザルツブルグ音楽祭で大活躍(記述はここまで)。以後は高齢のためにウィーン周辺に活動の場を絞る。この国がお気に入りになったのか、数回の来日演奏を果たした。この国の人も彼に敬意を払い、来日公演は何度もTV放送された。一方、アメリカでは人気が出なかったらしい。
というようなキャリアは、20世紀の典型的な劇場上がりの指揮者のそれ(のうち最も成功した人)であって、とくにおもしろいわけではない。しかも記述は、いつ・どこで・だれとどの曲を演奏したのかばかり。コンサートはあまり触れていないので、話はもっぱらオペラのこと。二人のメンターの思い出がそこに加わるくらい。かれより前の世代の演奏家ならでてくるような「ドイツ精神」「芸術」というような話はまるでない。最終章でようやく指揮の説明が出てくるが、ここでも技術に終始。あるいは劇場の人間関係にかんする注意に、指揮者のこころがまえくらい。それに、1930年代にドイツにいても、ナチス時代の思い出もないし、ナチス批判もない。政治的な主張もない。まあ、ゲルマン人にしては珍しいほど形而上学やロマン主義に興味がなく、職人のように手仕事に徹している人なのだ。フルトヴェングラーやワルター、フィッシャーのような演奏家の本とはまるで異なり、芸術論や政治論議を期待する読者には完全に肩透かし。カラヤンやヨッフムと同じ無政治的という政治的立場は彼の保身から生まれたのだろう。ベームより年下の演奏家(ショルティとかヴァントとかサヴァリッシュあたり)になると、イノセントであったと自己弁護できるようになる。