odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

五味康祐「オーディオ遍歴」(新潮文庫) オーディオ機器をいじることは自己修養を目的にした芸であり道である

 LPを聞くには作法がある。真空管が温まるまで時間がかかるから聞く20分前にアンプの電源をいれておきましょう。レコードプレーヤーの水平確認と回転むらがないことをチェックしよう。針圧を調整し、針先のゴミを丁寧に取り除いておこう(このときノイズがスピーカーにいかないように、アンプのチャンネルを変えたり、ボリュームをさげておいたりしておく)。そのうえでレコードを取り出し、盤面には素手で触らないように注意(できれば手袋使用を推奨)、盤面をきれいにふき取って、プレーヤーにセット。いよいよ針を盤面におとすわけだが、落とし先を誤るとシステム全体に悪影響があるので、しっかり目視しながらカートリッジをおろす。針がレコード面に降りたのを確認してボリュームをあげる。冒頭数小節を聞いてから、用意したベストポジションの椅子に座り、これから始まる20分強の時間を音楽に集中する。
 そのうえ、オーディオシステムにはモーター駆動系と金属の接点がたくさんあるので、定期的なメンテナンスが必要。モーターに油をさし、ベルトの緩みやたるみがないかをチェック。金属接点はさびがないように磨き、空気とふれているところは酸化するのでやすりで磨き、スピーカーのコーンが痛んでいないか掃除がてらに調べる。レコード盤もそりや日焼けがおこらないように、専用の収納家具にいれておき、埃が落ちないように注意。とくにプレーヤーにセットするとき、レーベル面に傷がつくことがあるので、厳重に注意。盤面に「ひげ」がつくのはご法度(別書で五味康祐は自分のレコードには「ひげ」がないことを自慢)。
 以上の作法とメンテナンスを独力でできるようになって、免許皆伝。これより先、人に教えることが許される。いやあ、レコードは気軽に聞けるものではなかったのだよ。カセットテープがでて少しは楽になったが、プレーヤーの可動部は壊れやすいし、ヘッドに磁気がたまるから定期的に消磁しないといけないし、テープの巻がムラになったら手動かプレーヤーでまき直し、テープの接触面で音のゴースト転写が起こるから長期間置きっぱなしはダメ、とここでも作法とメンテナンスはうるさい。

 さて、戦前の旧姓中学生で、中国戦線の兵士であった著者が帰還後悶々としている中、剣豪小説で人気を博す。収入が増えたときに行ったのは、戦前の蓄音機と敗戦後のラジオの記憶の思い起こし。高級オーディオの日本代理店がないので輸入するのが難しい西欧のオーディオ機器を片端から購入し、クラシック音楽のレコードもどしどし仕入れ、オープンリールテープでFM放送のエアチェックにいそしむ。ついには、防音設備の整ったオーディオルームのついた家を二軒たてる。昭和30年代にセット40万円のタンノイのスピーカーを購入したというから、いったいいくらの金をつぎ込んだのか(大卒サラリーマンの月収が1万円のころ)。そこまでしても思うような音が出てこないことに絶望し、憤慨し、人の話を聞き、システムをいじり、次の機器購入のためにカタログを眺める。「いい音」を聞きたいために、いかに金を使い、機器をいじくり、人の話を聞いたり、人のシステムを見に行ったり、ときに人を招いて自慢する。レコードを聴くときは作法を厳格に守る。その執念というと、まさに「鬼」。
 とはいえ、「いい音」を聞くために何をしたかは書かれても、なぜするかは書かれない。本人には自明のことだからだ。でも、はた目からするとその妄執は理解しがたい。どうにかここから読み取れるのは
1.「自然」な音を聞く(不思議なことに、自然な音を聞くためにコンサートにでかけた様子はない。あくまで機器からでてくるだろうという理想の「音」を追求する)
2.録音、演奏、作品、作曲家の一流二流や真贋を聞き分ける/見極める鑑賞眼を養う(なのでレコードは数回聴いたところで白黒つけ、お眼鏡にかなわなければ人に譲る。手元にあるのは100枚未満。)
3.機器やレコードには惜しまず投資する(金だけではなく、自分の時間も。空いた時間は機器のメンテとレコード整理・収納に費やす。)
4.音楽から物語を想像する(過去にあった人、別れた人、傷つけた人を思い出し、その人との体験を物語にする)
 ここから見えてくることは、オーディオ機器をいじること、音楽を聴くことが自己修練であること。音や音楽は理想やイデアを持ち、そこに達するためにはものの扱いに習熟し、自己の身体のようになり、自己自身を克己奮励して、その高みにふさわしい自己になることが必須である。音や音楽は現実に存在するはかないものではなく、理想やイデアを有した不変の観念であるというわけだ。当然、理想やイデアは実現することはなく、いつまでも終わらない。しかし到達しようとする修練の繰り返しこそ、目的であり、人生の目標となる。こんな感じ。
 この国では輸入されたものや風習が洗練されて、自己修養の芸事になることがある。茶道が典型。明治以後にはスポーツがその対象になる。野球道が典型(マンガを見るとテニスもそうだったみたい。「エースをねらえ」)。ピュアオーディオも昭和の時代に「道」になった。著者は師に弟子入りし、師の宣うことを実践し、結果が出ないことに悩み、ついに師を越え独自の道を開く。そのころには同好の士や弟子が集まり、一つの流派を確立するにいたる。この過程もまた、この国の芸道でよくみたものである。その点で、自分はこの本を著者のオーディオに関する見識の披露としてではなく、「芸」や「道」が確立し普及していくドキュメントとして読んだ。
 では、今後ピュアオーディオは「道」として普及するか。たぶん厳しい。それはレコードがCDに、電子情報になることで、音質を左右する問題が少なくなり、機器にこだわらずとも高い平均点をだすようになった。そのうえ駆動系のパーツが無くなり、メンテナンスフリーになる。音源も電子データになれば、収納に頭を悩ませなくともよい。鑑賞眼を高めてごく少数の高級品をめでるよりも、できるだけ多数の音源を聞き差異を見出す方に鑑賞方法が変わった。オーディオ機器が相対的に安くなり、少額である程度そろえられるようになり、所有を自慢する価値がなくなった。うえの1から4を実行するベースが変わってしまったのだ。そのうえ、音楽を聞くことが自己修養になるという観念も一般的ではなくなったし。
(もうひとつはオーディオのような趣味に費やす時間と金を人は持たなくなった。そのうえ、音や音楽の鑑識眼を持つこと、西洋の古典音楽に通じていることが人格を高めることであるという観念が一般的でなくなったので、自慢のタネにならなくなった。むしろオタク趣味と忌避されるようになっている。)
 以前は自分もオーディオセットに金をかけたが、引っ越しを機に処分した。たしかに「いい音が聴きたい」@石原俊(岩波アクティブ文庫)の欲望はあるものの、自分の死後を考えると、巨大な処分しにくい「もの」があるのは、あとの人によろしくない。迷惑がかかる。今はPCから直接スピーカーに出力しているが、それで十分。スピーカーは海外メーカーの1セット1万円のもの。

 五味康祐の家族は係累を残さずに物故したので、一度は散逸する恐れがあったらしい。区が所有することになり、オーディオセットは今でも聞くことができるらしい。これも昨今の少子高齢化による税収入の減少で、維持は難しくなるだろう。これからは文化遺産がなくなっていく。
公益財団法人練馬区文化振興協会(練馬区立練馬文化センター/練馬区立大泉学園ゆめりあホール/練馬区立石神井公園ふるさと文化館・分室/練馬区立美術館)
2015-05-23