odd_hatchの読書ノート

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中川右介「カラヤンとフルトヴェングラー」(幻冬舎新書) 大衆人気を使ってわがままだった二人のカリスマ指揮者の確執。

 自分がフルトヴェングラー関連の本を集めたのは1980年代。フルトヴェングラーは没後30年たったころだが、カラヤンチェリビダッケは存命中。本書の言葉をつかえば、カラヤンフルトヴェングラーをその死の後に追い出したのだが、その幻に脅かされていた時期。しかもカラヤンの老いはベルリンフィルとの確執になり、フルトヴェングラーを偶像にしてカラヤン批判をするようなものもあった時代。しかし、カラヤンが1989年に、チェリビダッケが1996年に死去し、自伝や伝記、関係者のインタビューや回想記が相次いで出版されるようになる。本人と関係者が没して十分に時間がたったとき、彼らへの感情は消えて、客観視できるようになる。
 その結果、それらの二次資料と一次資料(本人の書いたもの、演奏会記録、レコーディング記録、新聞記事、雑誌記事など)などを突き合わせることにより、それこそ1934年から1955年までの20年間、彼らがどこにいて、何をし、何を書いたかを日々明らかにすることができた。(何よりのおどろきは、敗戦直後のベルリンフィルの公演数が7,8月の夏季休暇を除いた一シーズンで200回を超えていること。登場する指揮者はきわめて限られていたが、ほぼ連日演奏会があった。現在の公演数は一シーズンで7-80回で、指揮者は多種多様。)

 通常、ベルリンフィルの常任指揮者はフルトヴェングラーの死後、カラヤンが選ばれた。戦後ベルリンフィルの再建に力を尽くしたチェリビダッケはそのまえに辞任していた、とされる。この筋はおおむねあってはいるものの、3人の指揮者およびベルリンフィルの関係者を調べると、そんな単純ではない。なにしろ、カラヤンは1955年の常任指揮者就任の前まで、ベルリンフィルをほとんど指揮したことがない。フルトヴェングラーは1930年代にナチスドイツで急速に人気のでたカラヤンに嫉妬し、いたるところ(ベルリンフィルザルツブルグ音楽祭、ウィーンフィルと歌劇場、バイロイトなど)でカラヤンの活動を妨害した。一方、カラヤンフルトヴェングラーに対抗した。敗戦直後、もっとも多くベルリンフィルを指揮したのはチェリビダッケであるが、牽強で傲慢な性格は楽団と衝突してばかり(そのために長い間客員指揮者、つまりアルバイト指揮者であった)で、功績はあっても選出される可能性はなかった。このような事態の一端は知られていたものの断片的であったのだが、資料の読み込みにより浮かび上がってくる。
 3人の他に、ワルタートスカニーニベームヨッフムクライバー(パパ)などがでて、彼らのエピソードがこのドキュメントの中で紹介されると、そこに新しい意味がみえてくる。たとえばワルタークライバーのようにはやくにドイツを亡命したものを敗戦後ドイツ国民は受け入れなかった。苦しい時に居なかったという理由。なにはともあれ同じ辛酸を共有した3人やクナッパーツブッシュには共感する。これはトーマス・マンが戦後ドイツに帰らなかったこととと重なる、など。
 ドイツ精神を最も表現するのは音楽(と哲学)であるという19世紀末からの考えがあって、その考えの枠にいると、芸術家フルトヴェングラーをビジネスマン・カラヤンの上位に置くようになる(たとえば脇圭平/芦津丈夫「フルトヴェングラー」(岩波新書)など)。しかし、ここで表現されるフルトヴェングラーは嫉妬深く、激情的で、陰謀を辞さない。しかし優柔不断と政治的駆け引きに無関心なところが戦後の失敗になる。端的にはホールや劇場の外ではわがままで嫌な奴だ。といって、これまで貶められていたカラヤンチェリビダッケが称揚されるかというと、彼らの行動性向は奇矯で、受け入れがたい。芸術が優秀であれば、多少の欠点は見逃せるといっても、彼らの言動は21世紀には容認できるものにはなっていない。カラヤン(やバーンスタインホロヴィッツら)のなくなった1989年以降、奇矯な性格の持ち主はオーケストラや歌劇場の責任者にはなれないようになった(チェリビダッケクライバー(子)が最後のひとりか)。権力の集中を避け、権限を分け明確にし、公平と透明性を組織に入れ、民主主義を実践する。この3人のやったような権謀術策を排除するというわけ。そこに社会の変化や成熟などをみることになる。なので、この三人の行動は、19世紀の芸術至上主義の最後をみているようだ。
(10年代にはさらに進み、指揮者の強権、それがパワハラ、セクハラ、ヘイトスピーチなどであったときはとくに、があった場合、過去にさかのぼってオーケストラや歌劇場は指揮者を弾劾し、絶縁するようになった。具体名はここには書かない。)
 自分のようなクラシック・ファンには、本書に書かれた裏話やエピソードは大変おもしろいのだが(といって彼ら3人の音楽を聴き直したくなるような発見はない)、社会学的な分析に乏しい。そのうえ権威主義的社会やファシズムにどう対処するかという問題には、この3人は参考にならない(なにしろナチスのトップやその周辺の人々にじかに電話や手紙をだせる人たちだぜ)。読者を限定するなあ。


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