タイトルは大仰であるし、著者は文中でたくさん怒っておられるが、さていったい誰を叱っているのかというと心もとない。なにしろ市場は減少の一途であり、新規参入客も減少中とはいえ、クラシック音楽の演奏会も放送も継続しており、音楽パッケージは販売されている。超長期的には、ギリシャ悲劇の音楽が途絶えてしまったように(ほかの古代文明の音楽もそうだけど)、いずれは19世紀に絶頂期を迎えた西洋古典音楽も使命を終え、継承する人も鑑賞する人もいなくなり、再現できなくなるであろう。そのような視野をもたず、たんに20世紀後半から21世紀へのせいぜい30年の時の経過で「殺した」とはいったいなんであろうか。
本書300ページを読んでもそのあたりの消息はようと知れないのであるが、いくつかの著者の言葉を切り取れば、カラヤンのつくる音楽は「嫌な感じ」で「世界苦に無関心」であるということにつきそうだ。この「世界苦」は聞きなれない言葉であるが、ワーグナーやフルトヴェングラー、アドルノや丸山真男らの音楽書を読むとおおよそ推測はつく。つまるところ、19世紀ロマン派運動における芸術の核心であり、芸術による世界変革の可能性を象徴するのがこの言葉にほかならない。それが表出されることこそ音楽体験の至上であるわけだ。そのようなシンボルとしての「世界苦」は19世紀以来の西洋古典音楽の演奏家、解釈者が懸命に追い求めていたのであるが、その伝統が1950年代にベルリンフィル、ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座歌劇場、ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団の総監督などの地位を獲得し、DGやユニテルなどの音楽資本と提携して音楽の缶詰を大量生産-大量販売することに成功したヘルベルト・フォン・カラヤンによって根扱ぎにされてしまった。というのが著者のみる音楽史。記述にあたっては精神史の方法を持ちいる。というわけで、カラヤンの生涯はおろか社会現象の記述はなく、演奏会の記録も種々のエピソードもなく、音楽パッケージにされた個々の録音を一つ一つ俎上にあげては、断罪していくのである。
著者の方法である「精神史」であるが、ほとんどがアドルノに依拠しているようであり(著者の現代社会批判もおおむねアドルノの線にそったもの)、今となっては古いロマン派の音楽観を適用することにとても違和感。「世界苦」や芸術による世界変革のヴィジョンなどを共有する素地がもうない。そういう指向をもった芸術はごくわずかな期間しかかかれなかったし、芸術の政治運動化もナチスによる惨憺たる失敗があったので政治運動としてもダメ。とくにアドルノに顕著だけど、この芸術観は非西洋の芸術を評価しない(優劣付けて劣位に置くという西洋中心主義がある)という問題もある。ここらに無批判でいられても。
音楽パッケージ評で気になるのは、評者は出てきた音楽から演奏家の内面を聞き取れるという確信があること。そうなのか、と通常の言語や身振りのコミュニケーションでも他人の心理を読めない自分は懐疑する。内面を吐露した言葉がないのに、それが可能なのか。とりわけ指揮者は自分で音を出すわけではない。たいていは技術的な指示をする指揮者のリハーサルは彼の内面を演奏家に十全に伝えうるものであるのかとも。指揮者-オーケストラの関係は伺いしれないので、これ以上の詮索はやめておくことにする(指揮者の内面はオーケストラに伝えうるという前提にたって)。それでもなお、指揮者の内面、この本にでてくるものとして、絶望・怒り・歓喜・不機嫌・沈鬱など、は演奏に表出されるのであるか。俺に感じられるのは、そのような内面を判断する前の、演奏に聞こえる音色の明るさ、演奏者の緊張や興奮、テンポの速さ遅さ、コントラストの強調、細部の練り上げなどまで。さてその先は。おれは自分の判断が一般的であるという自信を持てないので、そこまで言うのは躊躇する。故人の演奏では検証できないし。現存者の演奏者でも確認することはできないし。
(とはいえ、音楽を語るときに心理や感情を表す言葉や言い回しをすることがあるのであって、上記の懐疑を常に意識し言語化しているわけではない。自分の音楽を語る言葉は貧しく、過去の言説に影響されている。ここらの問題は岡田暁生「音楽の聴き方」中公新書で検討する。)
カラヤン断罪だけでは不足と見えて、ほぼ同時代にカラヤンの世俗的成功とは裏腹に、聴衆や評論家などの無関心と無視を経験したものの「世界苦」の表出に成功している指揮者としてオットー・クレンペラーとヘルベルト・ケーゲルを取り上げる。初出の2008年においてこの二人の指揮者の音楽パッケージの入手はすでに困難になっていた。読者は聞けない録音評を読むことにもやもやした感じになるのではないかしら。おれはたまたまこの二人の指揮者のファンであって、ことにケーゲルは2005年ころまでに出た録音のほぼすべてを持っている。なかには東ドイツ製作のCDとか、ブラームスの交響曲第2番のピッチミスで回収されたという珍品も。クレンペラーも取り上げられたのはほぼ既聴。なので、レコード評はにやにやしながら読みましたよ。おおむね同意で、とはいえすでに言われたことの繰り返しだなあと思いながら。評論においてオリジナルでユニーク唯一無二な意見を表明することは可能だろうかということも同時に考えつつ。
クレンペラーやケーゲルを取り上げるに際し、彼らの生活や活動の不幸をカラヤンの世俗的な成功に対比させる。なるほど、この二人はやっかいな性格のもちぬしで、オーケストラや劇場、政府関係者とのコミュニケーションを上手くとることはできず、地位も知名度も(たぶん収入も)カラヤンとは比べ物ににならないほどであった。そのうえ家庭においても不幸があり、老境に達しても不安定な生活を余儀なくされた。にもかかわらず、彼らは信念を曲げずに、「世界苦」の音楽を表出しえた。そこが著者の主張になるのであるが、演奏や録音には聞き取れないこのような生活や活動のエピソードを重視するのは時に危険ではないか。なにしろこの本では彼らの生涯に対する検討をほとんどしていないのだ。音楽と生活や活動にどのくらいの影響関係があるのかを安易にあてはめられるのか。すなわち、この本の出版(2008年)後に、聴覚障碍者の作曲した交響曲が人気となったが、その作品が別の人間の手になるものであるというのが暴露されたという事件がおきた。聴覚障害をもちながら、かつ貧困にあえぎながら作曲し、そこに彼の苦悩や逡巡や抵抗などが表現されていて、現代の芸術においては極めて珍しいものであるとされていたのだ。そのような評が書かれ、エピソードをうたった演奏会が開かれ、CDが売られた。その物語が虚構であったとされたあと、作曲者の評価は落ちた。この本は、同じような誤りをするような聞き方ではないかというのがおれの疑問。
(聴覚障碍者の名を作曲者名に冠した作品は葬られたが、ゴーストライターになった人の作品として再発表されて、耳にすることは可能。ただしコラージュだったか部分的だったかで、全曲ではなかったはず。さらに、脱線ついで。複数メンバーで一つの作品を製作し、ある固有名で発表するというグループ製作はクラシック音楽でもありうる。)
もうひとつ。
著者はクラシックが「殺された」理由をカラヤンにもとめるが、同時にカラヤン(を含めた音楽資本)を受容する聴取者にも責任があるとする。まあ、批判的意識を持たず、日常に埋没して、文化資産を消費する「快楽的聴取者@アドルノ」の側も問題だというのだ。でもそのような聴取者は、どこに存在するのか。どのようなグループであるのか。全然具体的でない。テオドール・アドルノ「音楽社会学序説」(平凡社ライブラリ)に出てくる聴取者の類型を読んだときの違和感とおなじことをここにも見いだす。著者が怒りや絶望を社会や市民にみるのはいいけど、だれにむけてかあいまいなままなので、読者には全く突き刺さらない。読んでページを閉じたら、すぐに忘れてしまうな。
さらに、著者はカラヤン批判にあわせて、現代社会も批判する。消費社会、資本主義の貫徹、生活の空疎化、趣味の画一化、人倫の喪失などなど。図式的、通俗的な社会批判。そのうえで、著者はこのような社会に対して「立ち上がらなければならない」「怒らなければならない」と挑発する。おいおい待てよ、だれに向かってどういう批判をし、抵抗や抗議を具体的にどう展開するのか全然書いていないじゃない。そのうえ、おまえはいったい何をしてきたのか。具体的な成果はなにかあるの。煽ることだけして、自分は書斎で音楽パッケージを聞いていただけじゃないの・・・。とまあ、そんな文句を付けたくなるのよ。詮無いことではあっても。
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