「櫻画報」は説明しずらいなあ。背景には1967-71年のこの国の政治の季節がある。大学構内と街中と路上に、常に人があふれ、デモや機動隊が衝突し、催涙ガスが漂い、暴力が日常的にあった時代だ。もともとは機動隊の側が暴力をふるったのがきっかけて、自衛のためにデモの側がヘルメット(頭部保護)、マスク(催涙ガス防止)、軍手などを着用する。さらに旗竿や角材をもつようになった…。この殺伐とした雰囲気は、半世紀がたつとなあ。その時代のフィルムを見てほしいが、手軽なのはアニメ映画「AKIRA」に登場するデモ隊だ。
さて、そこにおいて著者は「野次馬画報」なるプロジェクトを発足する。雑誌や新聞その他の記事依頼に対し、「野次馬画報」という通しタイトルを付けたイラストと文章を渡す。その結果、さまざまなメディアに「野次馬画報」という「雑誌」が掲載される。著者はそれを「乗っ取り」と称する(これも注釈が必要だ。公共機関を愉快犯が乗っ取り身代金を要求したり、政治犯の釈放を要求したり、政治亡命を要求したりする事件が頻発し、「乗っ取り」「ハイジャック」と呼称された)。著者の思惑は読者の「野次馬」化であって、組織化されない個が個々人勝手に路上のできごとを見聞きし、情報を横断させよう、あたり(ここも注釈が必要だ。ガリ版が安価になったので、このころからビラやチラシ、パンフレット、薄い雑誌を個人が作れるようになった。ミニコミという)。でも、1972年のあさま山荘事件と連合赤軍事件は野次馬の熱気に冷や水をさし、一気に沈静化する。「野次馬画報」はすぐに「櫻画報」に名称を変え、一年ほど、発表メディアを転々としていった。その間に、「櫻画報」最終回を載せた「朝日ジャーナル」が回収される騒ぎになり、あるいは著者のつくった「千円札」が問題になって刑事告発されるなど、身辺があわただしくなる。
この「大全」は1970年代に2回ほど大型版で出版され、何度か改定されたのちに、1985年に新潮文庫に収録された。新聞の一面をつかった「作品」を収録しているので、ときに読みづらいところもあるが、キレイにうつっている(老眼が、ああ。なので、自炊PDFをipadで拡大して読んだ)。まえがき、序文がなんども出てくるのは、当時読まれていたマルクスの著作のパロディ(「共産党宣言」あたり)。
で、内容だけど、著者の絵は自分の好みではなく(最初に見たのが小学生の時で、細密な劇画風というか銅版画風の絵は生理的にだめで、いまだに継続中)、笑いのつぼもあわない。むしろ、著者の饒舌な文章を楽しんだ。たぶん著者の文章としては最初期の頃かな。すでにのちの特長(ちょっと普通と異なる視線、細部をこねくり回す触覚、気分や感情の揺れ動きを微細に書き取る文章など)は現れている。
作品も文章も自分の力量では解析できないので、ここでは著者の宮武外骨趣味がすでに表れていることを確認した。のちに著者は「外骨という人がいた」(ちくま文庫)を出して、バブルの直前に外骨ブームをつくったのだが、その外骨の発見が遡ること1967年。社会学者・赤塚行雄の紹介で「ハート」「スコブル」を古書店で発見したとき。そこから雑誌の収集を開始して、「櫻画報」の時にはかなり影響されていた(ようだ)。「櫻画報大全」の数十年ぶりの再読で、表紙のレイアウトや周囲の書き込みが「滑稽新聞」に似せてあったり、本文の挿絵に「黒坊」(滑稽新聞の挿絵画家)の名前があったり、そこかしこに外骨の意匠があって、楽しめました。
21世紀に「櫻画報大全」を楽しむのはたいへんなので、「外骨という人がいた」(ちくま文庫)で、何度も発禁をうけ、ときに逮捕拘留され、選挙をあそんだ外骨を知ってみてください(なお、外骨の選挙運動は21世紀には何らの社会批判、政権批判にならないので、マネしないように。30歳以上で税金支払額が高い男子にしか選挙権のない制限選挙だから、やって意味のあったことです)。