odd_hatchの読書ノート

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トーマス・クーン「科学革命の構造」(みすず書房)-1 通常科学の体系が危機になると弥縫策をとるが、にっちもさっちもいかなくなると新しい理論に乗り移る。

 パラダイムを提唱した科学史、科学哲学の古典。パラダイムは1980年代にこの国で流行になった。その時期に自分はこの分野の本や論文をすこしかじった(とはいえ啓蒙や一般向けのものだけ。専門書はほとんど読んでいません)ので、以下の四半世紀ぶりの再読では当時得た知識に基づくバイアスがかかっている。章ごとのサマリーのあとにかっこ()でくるんだ感想を書いているが、素人の妄言なので、真に受けないように。
 科学史をみると、天才が定期的に表れて、それ以前の誤りを訂正して、新理論を提案するというように読める。コペルニクスの地動説が典型。でも、コペルニクスを同時代の「科学」と同列において読み比べると、そのようにはいえない。むしろコペルニクスは当時の宇宙観では保守的であり、プトレマイオスの体系を補強しようと考えていた。後世の天文学者や科学者がコペルニクスの発想に「革命」を見出した。そしてあとからコペルニクスを「革命家」とみなした
トーマス・クーン「コペルニクス革命」(講談社学術文庫)-1
トーマス・クーン「コペルニクス革命」(講談社学術文庫)-2
 そのように科学史を見直すと、科学の方法と構造が見えてくる。クーンが「コペルニクス革命」講談社学術文庫で行った歴史の読み方を理論化したのが本書。

第一章 序論 歴史にとっての役割 ・・・ 全体のまとめ。「累積による発展」「論証と反証の過程」として科学史をみる歴史研究は科学にはあわない。ある時点でさまざまな理論や説明がある時どれが正しいかはどの説明は自然とあうかで決まる(理論的正しさ、解釈の経済性などではない)。科学者集団は共通の仮定(世界をみる見方、科学のやりかたなど)をもっている。科学教育をつかって共通の仮定は伝授され強固な基盤になっている。通常科学と科学革命の違い。
(ここには科学と科学者集団と外部のステークホルダーがあって、その違いに無頓着のように見える。なので、のちにでてくるパラダイムも、科学についての場合と科学者集団についてのばあいとがごっちゃになるよう。)

第二章 通常科学への道 ・・・ (俺による図式化。観察による事実の集積→一部を強調するユニークな理論化→熱心な賛同グループの形成→解決すべき問題の提示→パラダイムの形成→通常科学の運用。理論やパラダイムにあわない観測や事実は説明可能な理論ができるまでは放置。パラダイムが含意するのは、理論、法則、応用、装置(追加すると雑誌刊行、学会、教科書、教育システムなど)。このような発展を近世の光学、電気学などにみる。)
トリビアルな発見は科学教科書ができたのは19世紀初め。それまでは古典を使用。histries自然誌(博物学とも)は事実の集積なので科学的とはいえないとのこと。ここでも科学と科学者集団の区別がごっちゃにみえる。)

第三章 通常科学の性格 ・・・ 科学者は他人の説明には満足しないものなので、既に与えられている理論(あるいは教育されて身についた理論)をブラッシュアップする。なので、通常科学は、事実の測定、事実と理論の調和、理論の整備を行う。
(このあとで出てくるかもしれないが、通常科学と科学革命をリアルタイムで区別することは(たぶん)できなくて、科学革命がおわってから、あれは「革命」だったとされるのではないかしら。なので「パラダイム転換!」というスローガンや行動指針は無意味。あと、科学革命でできたそれまでのパラダイムの上位パラダイムは理論先行性という性格をもっている。事実や観測と合わないところがあるから、「パズル解きとしての通常科学」が生まれる。)

第四章 パズル解きとしての通常科学 ・・・ 科学者集団が通常科学を行うのは、結果が応用する範囲を広め精度を増し、それが意味あることとされるから(報酬とか名声とか人格向上などの別の目的もありうる)。通常科学はパズル解きと同じ。そこには解答が必ずあるとみなし、ルールにのっとった活動であるとされるから(思い込みであるが)。能力があり規則に従えば問題に集中できるので、パズル解きに熱中する(なので科学の発展が早く見える)。社会的な問題はパズル解きにならない(解答が複数だとか、関係者の調整があるとか)ので、科学者集団はあまり取り上げない。
(これはそのとおり。ただ、ここには科学の制度化@廣重徹の視点がない。国家や企業など科学のパトロンの意向で、科学がパズル解きになるという説明がもれている。まあ、科学史を形式化するのが目的の本だから、社会学的あるいは科学者民族学的な視点がないのは仕方がない。)

第五章 パラダイムの優先 ・・・ ルールはパラダイムから導かれるが、パラダイムはルールを必要としない。ルールの体系がないのに、科学者を通常科学の伝統で結びつけるのは何か。クーンは、ヴィトゲンシュタインの「ゲーム」であるとする。科学者集団にはいるための専門教育で「習得」するゲームをやっているから。
(「科学は構成分子の間に密接な結合のない、がたがたした構造」である、ある分野の科学革命は別の分野に影響しないことが多々あるという。となると、「科学」とされるのは、理論や法則の体系であるというより、科学者を養成するシステムから生まれた成果の集まりであるといえるかも。そういうトートロジーみたいなところがある。あと、科学革命の前には、方法、問題、解決の基準についての議論がおこり、科学者集団が小さなまとまり(学派)にわかれるとされる。これは科学者集団を「科学」的に観測したときに現れる現象。たぶん法則性はない。)

第六章 変則性と科学的発見の出現 ・・・ 装置はパラダイムの予測を期待するように作られるが、そこに変則性(予測破り、パラダイムからは出てこない現象)に気付く。通常、パラダイムは簡単に降参することはないと保障されているので、科学者は保守的。変則性に気付くと、変則性の見出される場所を広く探索し、理論の修正を行う、修正ができないうちは変則性は科学的事実とはされない。変則性が認められると、既存知識の核心まで疑義が生じる。
(で、前の章にある「方法、問題、解決の基準についての議論が」始まるわけだ。)

第七章 危機と科学理論の出現 ・・・ 変則性が(科学者集団に)深く認識されるようになると、通常の問題を解く仕事がうまくいかなくなる。理論の修正、解釈の変更など多数の理論が並列するようになる。通常科学がうまくいっている間は、理論を変えることは浪費になるが、危機意識を共有している集団はそれを打開する新理論に変更する機会を待望している。
(理論の新規性だけでは革命にならないのであって、革命を待望する危機感が醸成されていることが必要。ここは政治の「革命」でも同じだろう。なので「革命」の語が選ばれる。)

第八章 危機への反応 ・・・ 変則性が現れたときの対応は、1)通常科学で処理可能とわかる、2)現状では解決不能と放置される、3)新しいパラダイムの創出と受容の戦い、のいずれかになる。変則性の存在が広く知られて、科学者集団が重大性を認識すると、異常科学になり、変則性の解決が専門の仕事に移行する。科学者はいちど受容したパラダイムを簡単に放棄することはないので、さまざまなことを試みる。競い合う方向が乱立し、何かをやってみようと意志を表明したり不満を表現したり、哲学的分析に頼ったり、基礎の議論を始めたり。
(科学研究の現場では通常科学もやるし、変則性の検討もしたりなので、どの変則性が科学の危機であるのかはたぶんわからない。その点では第6章以降の記述は、科学研究や科学史を抽象化し形式化した表現で、実態にはあわない。また通常科学、異常科学、科学革命はその渦中にあっては区別することができない。事後になってから、時代区分ができるようになる。その点でパラダイム理論は、現象を記述することはできるが、未来を予測したり、現状を分析したりするツールにはならないのではないか。)


 躓きの石になるのは「パラダイム」の多義性。本書には22とおりのパラダイムの定義がでてくるそう。なるほど、自分の気づきでも、パラダイムは科学の法則や理論のまとまりであるらしいし、科学者の認識や考え方を規定する言述のまとまりであるらしいし、科学者集団によって専門に教育される体系であるらしいし、教科書に記述されるような大多数の科学者が承認する記述やモノの見方の総意であるらしいし、どうにも曖昧模糊としている。それなのに、パラダイムが科学者集団(および科学のステークホルダー)を規定しているらしいことはわかる。
(訳者あとがきによると、まったく同じことが同時代の科学哲学者からも指摘されていたとのこと。自分の凡庸さに苦笑。)
 あと注意しないといけないのは、通常科学のパズル解きを貶しているわけではないし、科学者は革命をめざせともいっていない。クーンの議論は科学の変化を説明すること(漸進的な、一方向的な進歩をしているのではなく、突発的で飛躍的で無方向の変化がある)にある。通常科学と科学革命に優劣の価値を、その分野の外や科学の外で評価・判断することでもない。なにしろ科学革命を起こした科学者や学派が自分の仕事を通常科学としている例は多数ある(コペルニクスなど)。自分の立場は相対主義であるとクーンが強調するのはそういう意味。

2018/05/31 トーマス・クーン「科学革命の構造」(みすず書房)-2 1962年
2018/06/01 トーマス・クーン「科学革命の構造」(みすず書房)-3 1962年