odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

フィリップ・K・ディック「暗闇のスキャナー」(創元推理文庫)-1

 邦訳タイトル、原題「A Scanner Darkly」の意味は小説の中の説明によるとこんな具合になる。脳は二つのコンピュータが連結したようなもの。左半球と右半球でそれぞれ異なる機能をもっているが、それぞれの情報が統合されて世界認識の同一性を保持している。薬物や物理的切断なので、左右の半球の情報伝達が途絶えると、それぞれの世界認識は統合されない。ことに薬物中毒になると、半球の世界は別の半球の裏返しに捉えられる。ある像とその鏡像反転した像がぶつかり合っているようなもの。それは鏡とかスキャナーという物理モデルで説明できる(これは主人公が覆面麻薬捜査官とジャンキーの二つの役割・像を持っていることと対応している)。この統合されない世界認識はその状態を維持できず、精神や思考を破壊してしまう。すなわち、暗闇が脳の内側から飲み込んでいくのだ。

  
 さて、この長編はPKDの中ではとても異色。スクランブルスーツというSFガジェットが登場するが、SF的な設定はそれくらい。そのうえ、ここには地球全体の状況(たとえば東西帝国による戦争、異星人の侵略、超能力人の存在と商業化、融通の利かない機械などなど)がまったくない。スクランブルスーツをのぞけば、状況は1960年代後半から1970年代前半のアメリカ西部のヒッピー文化をほぼそのまま描いたものに他ならない。実際、PKDは主人公ボブ・アークター=フレッドと同じく、妻と子供と別れていた。家はヒッピーやジャンキーのたまり場になり、ときにFBI?の家宅侵入もあったらしい。自身は麻薬とやらなかったというが、別の薬剤を常習していたもいる。あとがきにあるように一時期のPKDの生活の記録であり、モデルも実在するということなので、自伝的なフィクションといえるだろう。(あるいは、生前ついに売れなかった主流小説に近いもの)。
 40代のボブ・アークターはある日突然、子供たちや妻と一緒に生活できないと悟る。離婚後、覆面麻薬捜査官になり、家族のいない家に4人のジャンキーを住まわせる。彼らの監視ができるように。その職業の必然で麻薬を使わなければならないので、ボブは次第にのめりこむ。とくに劇的な症状(副作用も強烈)は物質Dに入れ込む。この新型麻薬は製造ルートがまったくわからない。売人のドナが仕入れてくるのを使っているが、彼女からは情報がまったくとれない。
 ボブ(覆面麻薬捜査官としての名前はフレッド)は上司のミスターF(ハンク)から新たな指令を受ける。ボブ・アークターの家にモニターカメラをしかけたので、フレッドはボブを見張れと。自分で自分を監視し、言動を報告するはめになる。俺がそれほどヤバいジャンキーにみられているのかという驚愕。そして見張る自分と見られる自分、どちらが「ほんとう」の自分であるのかという社会的アイデンティティの喪失。
 家にたむろしているジャンキーはどんどんたががはずれていく。ボブの自動車のアクセルがこわされていたり、腐ったものをたべたのか突然失神したり。ふたりが病院に収容されたあと、同居のひとりがボブを陰謀組織のメンバーだと告発する。
 ボブはドナにふられ、家のメンバーも信用できない。麻薬捜査官としての検査(身体と精神の両方)をうけて、深刻な物質D中毒であることがわかる。そっこく、病棟に収容されたが、すでに廃人同様になっていた・・・(上の脳のスキャナー論に呼応するかのように、ボブの主観による記述はときにドイツ語で中断される。ボブはドイツ語をしらないのに、完璧なドイツ語を使える。脳の働きが二重になっているのを強調するために、ドイツ語部分は翻訳されていないが、どうやらゲーテファウスト」の引用らしい。)
 という具合に、ボブの失意、懐疑、転落、自己破滅をみるわけだが、ここには徹底的に救いがない。それまでのPKDの作品(「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」「最後から二番目の真実」あたりまでか)なら、主人公は世界の成り立ちや秘密等に肉薄できたり、彼を支える存在を得たり、自己回復の確信を得たりできたものだけど、ここではそんなものは一切なし。容赦ない。そのうえ、自己破壊衝動を抱える主人公には、若い女性(それも10代の)が現れて、啓示と共感をしめすものだけど、ここにはそれは現れない。


    

映像
  


 ドナというヤクの売人がそれらしい存在だが、とてもつれない。ドナがボブの誘いを断るシーン。とても長くなるけど、ここは引用しないと。(山形浩生訳)

【「ほら、わかるでしょ」秘密を打ち明けるその声は、やわらかかった。このボブ・アークターが友だちで、信用できるから明かしてくれているのだ。「いつか現れるはずの、あたしの理想の人よ。どんな人かも見当つくな――アストン・マーチンに乗ってる人で、それに乗せて北に連れてってくれるんだ。それでそこに、あたしの小さな古い家が、雪に包まれてんの。ここの北のどこかで」間をおいて、彼女は言った。「雪って素敵なんでしょ?」
 「知らないの?」
 「雪のあるとこなんて、行ったことないもん。前に一度、サン・ベルドーの山は行ったけど、そん時のは融けかかってて泥んこで、もうころんじゃったわよ。そんな雪じゃなくて、ホンモノの雪のこと」
 いささか重い心を抱えながら、ボブ・アークターは言った。「それ、全部本気? ホントにそうなるって思うの?」
 「絶対そうなるって! あたしの宿命だもの」
 それから二人は黙って歩き続けた。ドナの家に戻って、MGを出すのだ。ドナは自分の夢や計画にくるまって、ボブは――ボブはバリスを想い、ラックマンとハンクと安全なアパート想い、そしてフレッドを想った。
 「ねえねえ、おれもきみといっしょにオレゴンに行っていい? 出発いつ?」
 ドナはボブに微笑みかけた。穏やかに、痛いほどの優しさをこめて、ノーと告げた。これまでのつきあいから、それが本気なのはわかった。しかも気を変えることはあるまい。ボブは身震いした。
 「寒い?」ドナはたずねた。
 「うん。すごく寒い」
 「MGに、ちゃんとヒーター入れといたから。ドライブ・インで使おうと思って……そこであったまるといいよ」ドナはボブの手を取り、ぎゅっと握りしめて、それからいきなり、それを放した。
 でも、ドナの手の感触は、ボブの心の中にとどまり続けた。それだけが残った。この先一生、ドナなしで過ごす長い年月、彼女に会うこともなく、手紙をもらうこともなく、生きているのか幸せなのか、死んだのかどうかさえわからない長い年月の間、この感触は彼の中に封じこめられ、封印されて、絶対に消え去らなかった。ドナのたった一度の手の感触だけが。」】 

 ドナは一度もボブに手を触れさせない。男からすると厳しすぎるほどの拒否(でも当然な権利)。男のセンチメンタルな、未練な感情をとても喚起する一節(なので、自分がこんなふうにふられたとき、何度も繰り返し読んだのだよ)。ドナはいじらしい、でもボブには手を触れさせないし、手を差し出さない。彼が転落していくのを傍観し続ける。それを知ったうえで、ドナと同衾している夢、妄想をみるボブのいじましいこと。


2018/07/05 フィリップ・K・ディック「暗闇のスキャナー」(創元推理文庫)-2 1977年