2018/07/26 フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」(ハヤカワ文庫)-1 1968年
人間とアンドロイド(映画ではレプリカント)の違いは、アンドロイドは工場で生産されるもので、人間はそうではないというところ。しかし製造にあたるローゼン協会(映画ではタイレル社)は研究を重ね、外見上では区別できないところまでになる。そこで警察はフォークト・カンプフ感情移入(エンパシー)テストを使い、いくつかの質問をしその反応を測定することで対応する。アンドロイドにはエンパシー(共感)の機能がないので、型通りの反応をする際に人間よりもわずかに遅く反応するためだ。もう一つテストがあったが、それも心理試験的なもの(だったと思う)。感情移入などの情動の変動は身体に現れるという行動主義の考えなのだ。質問は動物が虐待を受けている(のでどう反応するか)というのもの。人間はペットの所有と飼育にのめりこんでいるので、エンパシーは極めて速い。一方、火星に住むアンドロイドは人間以外の生き物と接したことがなく、テキストやフォトの知識だけなので、エンパシーの反応はトレーニングによって引き起こされるのだ、とされる。
人間のエンパシーが強いというのは、マーサー教の存在で強化される。この奇妙な宗教は短編「小さな黒い箱」 The Little Black Box 1964.08(「ザ・ベスト・オブ・P・K・ディック III」所収)に由来する。これに関心を持つ人間はエンパシー(共感)ボックスを手にして瞑想する。すると、荒野を単独で歩くウィルバー・マーサーの姿を幻視する。その悲しげで疲れた老師は目的地がなく彷徨い続け、ときに石を投げつけられる。石の痛みはエンパシーしている人々が共有し、ときに血を流す。それによってマーサー老師の苦痛や苦悩を引き受け、宇宙的な悪意に対する受難を自分のものにしようとする。エンパシーボックスは誰もが持っていて、ひまなときにアクセスしては、共感・共苦の時間をすごす。
たとえば、マーサー教に心酔するのはリック・デッカードの妻イーランであるし(映画には出てこない)、スペシャルのジョン・イシドア。スペシャルであるために職業訓練とか人間の権利とかから疎外され、トラック運転手になり、巨大アパート(1000戸以上ありそう)にたった一人で暮らしている(なんて怖い)。そこにプリスやロイやアームガードらのネクサス6がアジトを構える(のは映画もいっしょだが、ロイはアームガードと結婚していて、プリスとロイは冷たい醒めた友人関係)。そのときにアンドロイドはジョンのマーサーへのエンパシーを馬鹿にして共感しない。というのは、アンドロイドはマーサー教から排除されているから。マーサーの考えは救済のない世界にいる人間を慰めることであるが、その範疇にアンドロイドははいっていない。さらに混乱するのは、スペシャルであり「ピンボケ」と呼ばれるジョン・イシドアをアンドロイド(のなかのロイ)は馬鹿にし、さげすむ。アンドロイドの方がスペシャルより高度な認識と世界改変能力を持っているから。差別の構造は複雑になっていて、中間以下の階層の人たちの間でぐしゃぐしゃな憎悪や嫌悪やヘイトの関係ができているのだ。
とりあえずはレギュラー(適性者)の人間がヒエラルキーの最上位にいるが、それは幻想と伝統によって維持されているにすぎない。なにしろ地球は放射能で汚染され、生殖能力が低下し、スペシャルが変異で生まれて、数が少なくなっているから。スペシャルを疎外し、アンドロイドを排除するのは彼らの身体的・精神的な弱さを隠匿するために強化されているのだろう。あいにくアンドロイドにはアシモフのロボット三原則はインプットされていないので、無条件に人間を保護することはない。いずれローゼン協会が新型アンドロイドを開発し、フォークト・カンプフ検査でも発見できないようなOSを搭載するようになったとき、人間とアンドロイドの差異を少なくとも人間の側がつけることができない。
むしろ身体能力に優れ知識や洞察で人間を凌駕し、危機対応能力にも優れるアンドロイドに人間は共感し、同乗することになるだろう。すでにそのきざしはリック・デッカードに現れる。そしてムード(情動)オルガンで感情をコントロールし、電気羊のようなペットにうつつを抜かし、現実の恐怖や危機から目を背けるレギュラーの方こそ、機械化された画一品ではないか。その恐れはアンドロイドの側にもあり、ローゼン協会の開発しているレイチェル型のアンドロイドは同じ顔、姿、行動性向を持っている。なので、ある種のグループ・マインドを持っていて、遠隔でも同情が働く。見たことがないのに、レイチェルはプリスに親近感を感じ、プリスの側に立って行動する決意をするのだ。となると、ますます人間とアンドロイドの区別ができなくなる。
人間とアンドロイドの差異は、主に感情においてあらわれるのだが、重要であるけど小説中ではあまり触れられなかった「生殖」。人間は生殖行為ができて、それに対する欲求がある。でもアンドロイドは生殖器官をもっていないし、生殖で自己増殖する機能をもたされていない。なので、生殖や性に対する欲求や欲望を持っていない(以上は原作の設定。映画ではロイとプリスの間に恋愛感情があるかのような描写があった)。その点は、レギュラー(適性者)が愛好する電気ペットも同様。電気ペットは機械仕掛けなので、当然生殖できず、子を産むことができない。故障しても修理すれば永続的に所有できるが、一代限り。でも本物(とは何か、血統書以外に確認する手段はないのではないか)の動物は生殖が可能であり、つがいになれる動物を持っている人とコンタクトして、子供を産ませたいとレギュラーは熱中する。稀少性の確保、および市場価値の増加がねらい。なので、この世界では、人間-動物vsアンドロイド-電気ペットという関係があり、希少性と生殖可能性において前者が優遇・保護されるようになっている。
この人間-動物vsアンドロイド-電気ペットの関係の類似はもうひとつ。人間-動物は個体ごとの特異性がつよく、原則同じ個体は存在しない。双子であっても形質が異なり、行動性向も変わってくる。でも、アンドロイド-電気ペットはそのような近代的人間から生まれるような個体の特異性や個性は持たない。レイチェルがいうような「あるタイプの見本」であり、量産可能な群である。短編「変種第二号」@フィリップ・K・ディック「ザ・ベスト・オブ・P・K・ディック I」(サンリオSF文庫)を参照。
(なので、タイトルの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」が導かれる。たがいに感情移入の能力がなく、生殖で自己複製することができず、量産品として複製が大量に存在し、死の代わりになるのが故障や破壊であるもの。彼らは互いに共感を持ち、連帯することが可能か。人間や動物を疎外し排除する可能性があっても、それは自立であるのか。)
区別が可能であると考え実行しているのが、リック・デッカードらのバウンティハンター。彼らが「人間とアンドロイドを分ける防波堤」の役割を追う。次第に困難になる仕事。国家や企業はその区別に介入しないし、失敗したら放置。まことにいつ切っ先から落ちるかわからない、ゴールのないランナー。
2018/07/23 フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」(ハヤカワ文庫)-3 1968年