odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

フィリップ・K・ディック「アルファ系衛星の氏族たち」(サンリオSF文庫)

 シミュラクラのプログラマーであるチャック・リッタースドルフは、離婚の危機。なにしろ妻のメアリーはマリッジ・カウンセラーとして成功していて、最も有名なコメディアンバニー・ヘントマンの支援を受けて大成功。夫婦関係を清算して、アルファ系衛星で心理カウンセラーとなり、地球から離れようと考えていた。そこで、ヘントマンにチャックを紹介し、会話のプログラミング能力を使って、自分のコメディの台本を書く仕事に付けようとした。ヘントマンのアイデアは離婚の危機にある夫婦のシチュエーションコメディ。自殺願望と妻への殺害願望を持つ夫が主人公。チャックの妄想や病理がそのままフィクションになるかのような提案は、自分の治療になると思って、チャックは引き受ける。しかし、スクリプトを書くために、隣人のテレパス能力をもつ粘菌!?ロード・ランニング・クラムに頼んで地球では禁制のドラッグを使った。チャックが所属しているCIAは見逃すはずもなく、バニー・ヘントマン監視を解任し、さらにはチャックを解雇する。そのうえ、ヘントマンお気に入りの女優のアパートで一晩過ごしたあと、ヘントマンはチャックを解雇した。
 そのとき、かつて地球が植民地化しその後放棄されたアルファ系衛星で違法な事業をヘントマンが展開していることが発覚し、CIAはヘントマン逮捕に動くが、いち早くヘントマンは逃げる。チャックはヘントマンの行き先をCIAに提供する代わりに、自分をアルファ系衛星に行く宇宙船に載せるように頼む。アルファ系衛星は精神病院として機能していたため、それぞれ異なる神経疾患をもつグループ(氏族、クラン)が共和制をひいていたが、そのうち他者への暴力性をもつクランが地球の宇宙船を攻撃してしまった。戦闘状態の衛星で、チャック、メアリー、ヘントマンが生き残りの方策を探る・・・

 というのが表層のストーリーか。このストーリーをうごかすヘントマンの意図や欲望が理解できない(というか後からとってつけていったというか)ので、なんでみんなでアルファ系衛星に向かうのか、なんで一介のコメディアンが没交渉だった地球とアルファ系衛星の国交回復のキーパーソンになるのかよくわからない。このSF的設定と地球防衛の話はまあ、つまみたいなものでしょう。
 代わりに浮かび上がるのは、所得や知名度の違いで妻に劣等感をもち、自殺願望と妻への殺害害衝動をもっている中年男の自己回復。妻もまた夫をいびり、傷つけ、屈服させる性向をもっていて、辞めるべきと思っていても停められない。彼女もまた精神疾患を持っていると感じている。なので夫と離れようとするが、依存関係から抜け出せない。こういう男女間の行き違い、もつれをどうほぐすかが問題。その際にチャックには、別の女性遍歴がある。ヘントマンの指示(と後からわかる)でチャックを誘惑する女優、時間逆校能力を持つティーンエイジャー、アルファ系衛星の過食症の女性。彼女らはチャックの成功を理解しようと努め(そのふりをしたりして)、チャックのためになろうとする。この3人は肉(性)、心、霊の象徴とみてよいか。それぞれの界において、チャックには無上の喜びになりうるのであるが、すれ違いや強制的な別離が起きて、チャックに救いをもたらさない。最後にアルファ系に残ったのはチャックとメアリーであるが、これもまた未来を輝かしくするかどうかの確信はない。こういう心や精神のもつれに対してPKDは解決をもたらさない。一冊の長編を読みえ終えたときに、読者にカタルシスをもたらせないのだよな。たいていもやもやや暗鬱の気分を残す。なんともやっかいな作家!
 アルファ系衛星に住む精神疾患の氏族(クラン)は10。暗殺恐怖、過食症強迫神経症、暴力衝動などなど精神疾患の博覧会。このような多様な症状にある人の中に入るのはチャックの自己治療の一環とみなせるか。長編「シミュラクラ」の最後で主人公が自ら入院したのと同じ。この時期は治療を受けるまでが長編の主題であったが、70年代半ばからは治療から社会復帰することが主題になっていったなあ。
 あと魅力的なキャラクターがテレパス能力をもつ粘菌ロード・ランニング・クラム。チャックの念慮や衝動につきあい、慇懃で丁寧な語りで彼の行動に指針を与え、危機を救う。これも長編「あなたを合成します」のリンカーン擬似体に似ている。人間と同じ感情を持たないということで、人間に対するカウンセリングやコーチングを実行してしまうわけだ。感情や習俗を共通しないので、社会(複数の共同体が交通@柄谷行人する場所)の倫理や正義をおのずと体得するのだね。
 1964年1月16日SMLA受理、1964年出版。