PKDの長編では膨大な登場人物が現れて、それぞれが連絡なしに動いていって、最後にまとまるという仕掛けがおおい。うまくいくことはまれで、たいていは本筋を追うのも困難になる。この長編ではエリック・スイートセントという人工臓器移植医の視点で書かれているので、たくさんの人物を追いかけなくてもよいのだが、彼の周りのできごとが錯綜していて、大状況から個人的な問題までが彼ひとりの肩にのしかかる。そこを解きほぐしていくのがとても大変。
まず、2055年の地球は星間戦争に巻き込まれていた。長年の宿敵であるリリスター星人(人間型)とリーグ星人(蟻型)が人類に接触してくる。国連は人間型ということでリリスター星人の側についたが、リーグ星人の側が強くて、地球はリリアン星に多額の投資をしなければならず、地球周辺はリーグ軍のために危険になり、戦局が芳しくないリリアン星は地球に150万人の兵士動員を要求する。スパイによると、リーグ星は地球人に干渉するなとだけ要求し、それが打切れられれば撤退するといっている。あとがきによると、この星間戦争はベトナム戦争をモデルにしているということで、なるほど1963年当時にはまだ派兵していなかったアメリカもこのあと大量の軍隊をベトナムに送り、泥沼の戦争を10年続けることになる。
リリスター星首相フレクスニーは地球を訪れていたが、交渉にあたるのは国連事務省庁のジーリ・モリナーリ(PKDによるとムッソリーニをモデルにしているという)。「タイタンのゲームプレーヤー」同様に老化除去手術があたりまえで、人工臓器移植によってジーリはきわめて高齢。しかし常に体に異常があり、医師団が従っている。そこにTF&D株式会社の専属医師がジーリの要求で専属医に加わる。ジーリはエリックにだけ彼の政治戦略を語り、秘密顧問らとは別の動きをすることを望む。
さて、対リーグ星戦のために軍事用ドラッグが製造されていた。解毒剤もないドラッグは秘密裏に流通していて、エリックの妻キャシーが飲んでしまう。一度飲むと中毒になり、精神疾患も現れるこのドラッグを、自暴自棄(と自殺願望)になったキャシーはエリックに飲ませた。このドラッグはもう一つ副作用があり、時間を融解して、意識と身体を過去や未来に送ることができる。エリックは未来に飛び、いくつもの並行世界を見ては、その情報を「現在」に持ち帰ることになる。一方で、エリックは離婚したにもかかわらず、次第に衰え精神障害も出てくるキャシーの面倒を見ていることにうんざりもする。
ちょっとスマートにまとめすぎたかな。これにくわえて、ジーリの周りにはあわよくば彼の後釜になって権力者になりたいという連中やリリアン星のスパイもいて、心安らぐ暇もない。みかけはヒッチコック「北北西に進路をとれ」のような巻き込まれがたサスペンス。それが「スタートレック」か「タイムトンネル」で起きている感じ。ちょっと違うのは、人類はリリスター星人と手を切る選択をするのだが、実行は途中で挫折。小説中では、エリックが重大な決断をするが、結果は書かれていない。ここを不満とみるか、大状況よりエリックの決断こそが主題であるとみるべきか(自身もドラッグ中毒になり、ドラッグ中毒の妻との離婚騒ぎがあり、別の女の子とロマンスがあるというのは、書いている当時のPKDの生活そのものだった。この小説はPKDの自己解放の試みとみることもできる)。
ジーリという最高権力者は戯画化されているが、ガルシア=マルケス「族長の秋」の大統領そっくり。有能であるが、猜疑心が強く、人を傷つけて留意を下げ、愛人には卑屈で、プライドとコンプレックスが強く、言動は支離滅裂で、自殺願望がある。リリスター星の首相フレクスニーが感情を表に出さない若い冷酷漢として描かれているだけに(ゲッベルスあたりがモデル? 「高い城の男」執筆の際にPKDはナチスを調べていた)、この対比が強烈。こういう有能か無能かわからない指導者を持つことは願い下げであるが、読んでいる分には楽しい。
彼も含めて自殺願望をもっている人物が3人登場。エリックとキャシー。ジーリは長く生き過ぎた(そこにはSF的な仕掛けが働いている)ことが理由だが、後者の夫婦はそういう性向だからとしか理由がつけられない。互いに相手を傷つけずにはいられず、それによってさらに自分が傷つき、抑うつ状態を亢進していく。エリックは理性と自己規律でコントロールすることができたが、キャシーはそうもいかず収容される。そのような不可逆的な生理的な時間の進行では、自己や他者の破滅や死を免れることができず、介入しても拒絶されるだけかもしれないが、エリックは生の意味を獲得しようとあがく。それこそ自殺を決断する一歩手前で(このときエリックは死から生を選択する飛躍を遂げるが、なぜは書かれないし、感情の変化も書かれない。ただ直前の決断を覆す言葉を発するだけ)。そこがPKDの希望なのか。その先の困難が大きい事はわかっていてもなお、生を選ぶこと。
それを後押ししたタクシーの会話が素晴らしい。
「わたしならそばにいてやりますね」とタクシーは言い切った。/「なぜだ?」/「人生はさまざまな諸相の現実から成っていて、それを変えることはできないからです。妻を捨てるということは、こうした現実に耐えられないといっているのと同じなんです。自分だけもっと楽な特別な条件がなければ生きられないって言うのと等しいことなんです(P379)」
(でもPKDのこのあとの小説ではそういう選択もできないほどドラッグ中毒や自殺願望はひどくなっていく。まだ「健康的」なこの小説の読後にこのあとの作品を思い起こすと、気分は暗い。)
タイトル「去年を待ちながら」は、時間が融解して未来と現在を行き来しているエリックが、有効な治療法がないまま病院に収容されているキャシーを思っているところを、
「自分のちっぽけな人生が、横やうしろではなく、前にあるんだということを忘れてしまっているのじゃないか? 去年が戻ってくるのでも待っているのかね?(P343)」
といわれるところから。
1963年12月4日SMLA受理、1966年出版。