odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

フィリップ・K・ディック「戦争が終り、世界の終りが始まった(ジャック・イジドアの告白)」(晶文社)

 フィリップ・K・ディックの小説でも「普通小説」なのでと油断したのか、ひどく気分を滅入らせるなあ。なにしろ、登場人物の全員が愚かしく、人を傷つけてばかりなのに、俺自身とそっくりなところをもっていて、彼らが語ったり行動したりするたびに、苦笑しながら、気分が落ち込んでいく。こいつら、自分の馬鹿なことを知らないで、という言葉がそのまま自分にブーメランで戻って、自分の欠点に突き刺さるのだからね。

 1959年に書いてどこも出版を引き受けず、でも1975年にようやく出版。もちろん売れ行きはさんざんだったのではないかな。読めば上記のようになるし、読んだからといってこちらの頭がよくなったような錯覚をおこすわけでもないし、読了後には自分の周囲に登場人物たちと同じ問題を抱えていることに気付くわけだし。とにかく、フィリップ・K・ディックは読者を強烈に感情移入させて、この世が残酷であることをこれでもかと見せつけるのだから、始末に負えない。それでいて、このダウナーな雰囲気にどこか魅かれてしまって(たぶんユーモアとぶっとんだ着想)、次々と読み漁ることになる。
 さて、サンフランシスコから車で一時間くらいいったところの田舎町。詳細な描写はないのに、あの時代の生活が生き生きと浮かんでくる。とりあえず中心にいるのはフェイというスリムな女性。この個性が強烈で、人を自分の召使いのようにあつかい、自分の命令に従わせてしまい、気分が害されると悪態(スラング交じりの下品な言葉が満載)を付き、感情のコントロールができない。主婦の仕事はほぼしないで、自分の楽しみのために時間と金を使う。しかし、頭がよくて、男からも女からも魅力的。欠点を知っていながらも、魅力の網から逃れられない男がどんどん気を狂わせていく。最初は夫のチャーリーで、学はなく町から出たこともないが、工場を経営していて小金をもっている。結婚したが、フェイに頭を押し付けられていて、反論できず、暴力をふるうしかない。心臓まひを起こして、入院する。フェイが見つけたのは弁護士を夢見る28歳のネーサン・アンティール。このインテリではあるが、生活力に乏しいハンサムな男がフェイのとりこになり、田舎町のうわさにならないように不倫を重ねる。とはいえ、二人きりの時は口論ばかりになる(フェイが挑発してネーサンをいらだたせるのだ)。まあ、こういうソープ・オペラのようなストーリー。それが凡百のよろめきドラマと異なるのは、なんとも絶妙でリアルな会話。外見や行動の描写はないのに、彼らの風貌や立ち居振る舞いがみえてくるよう。
 さて、フェイには兄ジャックがいる。知的障害をもっているのかな。職に就くことはできないけど、ハウスキーピングの技術はもっている。奇妙なのは、ニセ科学やオカルトにはまっているのと、克明な記録をノートにつけていること。結果として、彼の報告がチャーリーの耳にすることにより、フェイとチャーリーのヒューム家は壊れてしまうのだ。そしてネーサンもある決断をしなければならない。
 愚かしいのはだれもが他人の欠点をよく把握していて、行動パターンがわかっているのに、他人を傷つけることを選んでしまうということか。フェイの悪口雑言をいなすことができれば、そのあとの喧嘩を回避できるのに、それでいてチャーリーもネーサンもフェイに対抗せずにはいられない。そして予想通りに彼らはにっちもさっちもいかないぬかるみに足を突っ込み、抜け出せなくなる。他人を傷つけることなしに、なにかをすることができない。なるほど、世界は愚かしい方向にいくように動いているし、残酷な仕打ちに打ちのめされながらも、それを耐えねばならない。そんな世界が描かれる。なんともいやなものだねえ。ネーサンとフェイは子供らと遊園地にいく。それが全然楽しそうじゃないんだものな。子供らも親の無関心のために、自閉的なようでかわいそうなもんだよ。
 ディックのすごいのは、不倫の話にジャックという「白痴」を入れたことだな。彼はなるほど奇妙な、子供っぽい考えにとらわれていて、社会や家庭では物の役に立たない。しかし、イノセンスのおかげで、この愚かしい登場人物の中ではもっとも状況を正確に把握している。フェイの愚かしさも、チャーリーの悪巧みも、ネーサンの打算もよくわかっている。彼の眼を通してみることで、読者は世界の「愚かしさ」を理解することができる。ところが、ジャックはあまりに無垢なので、他人を幸福にすることができない。現代のムイシュキン侯爵は徹底的に無力なのだ。でも、彼に訪れる啓示(彼はオカルト団体の世界はあと一か月で破滅するという予言を真剣に信じている。もちろんそのような事態は起きなかったので、彼は失望とともにある啓示を得るのだ)は、たぶんこの小説の唯一の希望。苦々しいし、まったく「建設的」ではないのけど。


 ハヤカワ文庫で「ジャック・イジドアの告白(こちらが原題)」のタイトルで出版された。