odd_hatchの読書ノート

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フィリップ・K・ディック「虚空の眼」(サンリオSF文庫)-2

2018/09/07 フィリップ・K・ディック「虚空の眼」(サンリオSF文庫)-1 1957年


 多元宇宙とか平行世界などで語られることが多いようだが、そこは素通りすることにして。
 陽子ビーム偏向装置の放出したエネルギーで吹き飛ばされた先の世界。読者の物理現実や執筆時の作者の現実に似ていて、しかしずれている。些細な差異がとげのようにひっかかって、しだいに痛みや軋みがましていく。でも、その世界はまったくの空想にあるわけではなく、あるときのどこかにあった世界に似ている。宗教が生活と労働を支配しているのは中世ヨーロッパの教会を中心にした村落だし、上品な道徳が貫徹してそれにあわないものが強制排除されるのは19世紀イギリスやアメリカの都市だし、陰謀と迫害の恐怖におびえるのは1950年代前半のマッカーシズムだし、労働者と軍隊のせめぎあいと殺戮はフランスやロシアの革命でみられたものであるし。実際にあった(ありえた)社会が1950年代のアメリカ地方都市に重ねあわされる。他人や風景はアメリカの地方都市であるのに、べつのときのどこかが重ねられると強烈な異化効果を生む。
 そのような異化作用のある場所に人が放り込まれる。他人や風景に違和がないので彼らはそれがいままでの現実の地続きであると思い込む。それがささいな変化で崩れていく(罰当たりな言葉をしゃべると昆虫に刺されたり、顔めがけて飛んできたり)。このときの反応がPKDでは独特。社会に感じる違和が自分の存在の曖昧さ、無根拠の不安に結びつく。作中でハミルトンは「存在レベルの否定を感じる」「根本的なものがずれている」という感覚になる。次第に社会の不合理や不条理があきらかになり、彼らに危害が加わるようになると、「自分が誰かの空想する世界のゆがめられた虚構の産物」であり「目に見えない存在に操られている」という意識になる。ファンタジーの主人公では、社会のおかしさを気にしだしても、自分が自分であることに疑いをかけることはなく、社会に積極的に適用していこうとするものだが。自分の存在のたしからしさを気にするのはPKDの小説で繰り返される。この小説では、ハミルトンは懐疑に襲われるものの、まだアイデンティティクライシスを起こさず、おかしな世界から脱出する試みを精力的に実行する(これが後期の「暗闇のスキャナー」「アルベマス」「ヴァリス」あたりになると、おかしな世界から脱出する方法はほぼないし、脱出しようとする気力や体力も失われている)。
アイデンティティの喪失と定常的な不安、虚構内存在の自己意識などの問題を純粋化した小説は筒井康隆の「脱走と追跡のサンバ」「虚人たち」になるのだ、といいたくなる。)
 途中で、8人は誰かの夢=インナースペースの中にいることで共通の認識に至る。8人だけが「まとも」ないしリアルにもどる資格を持つ者になる。彼らの認識の外にあるのは、おかしな世界のところに彼らの友人や知り合い、隣人として現れる人たち。この人たちは、夢=インナースペースの支配者の欲望や都合に応じて勝手に改変される。ハミルトンの恩師ティリンフォードや酒場の娼婦シルキーなど。その都度の夢=インナースペースで登場するが役割と外貌が変わる。彼らはおかしな世界に過剰適用していて、目に見えない存在に操られていることを認識していない。「まとも」でリアルに戻る資格のある人からすると人形にみえるわけだ。作者も彼らには深いまなざしをむけない。それが10年もすると、目に見えない存在に操られている人(ないしそう思い込んでいる人)が主人公になる。「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」のレプリカントが代表。自分が自分であるのではなく、夢の中の存在、誰かに操られている存在、すぐまえに誕生したのにニセの記憶を刷り込まれてずっと生きてきたように思いこんでいる人間、そういう存在を考えるようになる。存在の無根拠性、あいまいさが無限にはがされていく不安や恐怖がのちの主題になる。
 この世界では機械のふるまいが異様になる。タバコの自動販売機がディスプレイ用品を複製するだけだったり、家電ケーブルが人の足を掬ったり、傘につかまって天空にまで飛んで行ったり。なぜか機械は操作する人の思い通りには決して動かず、不要な時に過剰な動きをしめす、機械は意図を持っているようだ、しかしどのような意図をもっているのかどのようなルールで動いているかは決して人には認識できない。なにしろ発話装置を持っていないからね。このような思いどうりにならず、不都合を押し付けてくる機械の異様さ。ここには、機械や人形を動かす幽霊、心霊、おばけのような背後で力を働かせる霊や悪魔はいない。そういうことができるのは唯一「神」だけ。
 「第二ハーブ教」というでっちあげの新興宗教の記述がみごと。ここではのちの宗教(「ヴァリス」など)に比べると教義は曖昧模糊としているが、共通することもある。気付いたのは神が天空から人間界を見下ろしていて、人間からは姿を消していること。罪に対する罰を厳しく与える道徳的な超越者であること。メッセージは支離滅裂で、容易に理解しがたいこと。
 読みながら思いついたことを一気にメモした。こうやってPKDの諸作にさまざまなリンクを張ることができ、書かれたときの時代にも歴史にも興味が広がっていく。そのうえストリーテリングもみごと(世界がかわるごとに脱出が困難になっていくサスペンス、どうやって世界の支配者の裏をかくのかミステリー的な謎、大団円がめでたしめでたしにならずに考えさせる数行の記述など)。ひとこと、傑作。