odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

井伏鱒二「山椒魚」(新潮文庫)

 最初に読んだのは高校三年生の受験直前。ぜんぜん面白くなかった。老年に足を踏み入れた今読むと、とてもおもしろい。年齢によって受け取り方が違うというわけだな。なるほど、井伏の小説は人生経験の少ない高校生にはわからんわ、高校生には太宰か芥川か梶井のほうがわかりやすい。

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山椒魚 ・・・ 1929年、著者31歳の出世作。高校の教科書にあったけどどういう授業をうけたのかなあ。山椒魚、小エビ、水すまし、蛙という動物は何の暗喩であろうかという問いがあったような記憶。答えは覚えていない。まあ、この年で読み直せば、青少年の独我論の青臭さとか、夜郎自大全体主義の愚かしさとかに気が向く。著者は80歳を越えて全集を編むときに、ラストシーンを削除する決断をしたのだが(そういう新聞記事を覚えている)、この文庫本ではそうしていない。

朽助のいる谷間 ・・・ 谷間の村が水没することになり、70余歳の朽助が住居移転する話と、ハワイの移民排斥で帰国することになった3世の子女に「私」が思いをはせる話と、文学青年の「私」と朽助の昔話が交錯し交響していく。生活の細部しか書いていないのに、いつの間にかこの国のあり方(環境政策とか地方の棄民とか)を想起することになる。朽助の口癖(あれ?)「なんたる咎(とが)だりますか!」は愚直でありながら、何と深く心を打つのであるか。大江健三郎懐かしい年への手紙」「いかに木を殺すか」などの遥かな前触れ。

岬の風景 ・・・ 大学を中退して文学をしている青年(なんという不良!)が地方の雑誌の編集人に雇用され、下宿の娘の家庭教師になり、賄の娘がちょっかいを出す。二人の娘の間を揺れ動く小心者の青年。いまからみるとなんともたわいのない話だが、1920年代の青年読者にはこれが夢のような恋愛風景だったのだろう。

へんろう宿 ・・・ 電車を乗り違えて、田舎宿に泊まったら、婆さんの愚痴を聞いて目が覚めた。

掛持ち ・・・ 甲州で二つの温泉宿の番頭を掛け持ちしている内田さん=喜十さん、文筆家で釣り好きの「井能定二」に会う。後年の「駅前旅館」のはるかな前触れ。

シグレ島叙景 ・・・ シグレ島は無人島で数百羽の兎がいる。あとは座礁した船に住む中年の独身男女。そこに「私」が住むことになって。「ロビンソン・クルーソー」の下世話版、かな?

言葉について ・・・ 新潟のどこかの島の宿に泊まると、小学生の女の子がかまいにきて、修身やら裁縫やらの宿題をして、言葉が聞き取れないから標準語に翻訳したりして…。

寒山拾得 ・・・ 街で模写をしては隣町で売りさばいて放浪している画家。うまく売ることができたが、寒山拾得の絵は売れず、二人で酩酊して真似をする。

夜ふけと梅の花 ・・・ 夜更けに酔っぱらって歩いていると、血だらけの顔がぬっと突き出され、なぜか5円を借りることになり…。「私」と「村山某」の境があいまいになる「ふしぎ小説」。谷崎か乱歩作といってもいいような怪作。

女人来訪 ・・・ 仲の良くない家内と家庭争議中。8年前に別れた年下(教員時代の教え子!)から会いたいと手紙が届く。家内も一緒に会うととりとめのない話をして帰る。しばらくして手紙が届いた。

屋根の上のサワン ・・・ 散弾銃で撃たれたがん(雁)を手当てし、羽を切って飼うことにした。がんが渡りを始める季節、サワン(がんの名)が屋根に上って甲高い鳴き声を上げた。放してやろうと決心した翌朝、サワンはいなくなっていた。高校の授業だとサワンの暗喩しているものを当てろみたいな問いを出しそう。

大空の鷲 ・・・ 伊豆三坂峠にいるクロという名のワシ。茶店の店主と眺めていると、映画のロケに遭遇。監督と女優(山本とマキだそうで、モデルを特定できるかなあ)の会話を聞いて、文筆家はノートをとる。その妄想と現実がこんぐらがっていって。めずらしく「叙述トリック」を仕掛けた傑作。伊豆の山道でロケした映画というから、清水宏監督作品「ありがたうさん」1936年(昭和11年)なのかなあ。

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 たぶん私小説の形式を借りていて、ほぼすべての作品に登場する語り手は作者自身の投影なのだろう。それがうっとうしくならないのは、「自分は」「自分の」「自分を」「自分に」「自分が」という自意識というか自己反省の語りがほとんどないこと。語り手の感情や気分が書かれていても、その理由や原因をしつこく探る自己分析や自分語りには興味をもっていない。そこがこの小説のよいところ。
 なにしろ、語り手はほぼすべての小説においてバチガイで、だらしなくて、いじましい小人物。このバチガイの感覚がなんとも「自由」。俺は優れているが不遇、やればできる子だが機会がないのでやらない、他人を見返してやろうなどという野心からはまるで遠く離れている。バチガイでだらしなくていじましいと意識しているから、他人も自分も客観視できるのだろうね。その眼に映る他人もだらしなくていじましい、その一方で元気がよくて、うじうじしていなくて、くじけない。その明朗快活さはこの国の小説では稀有ではないかしら。こういう人々の描写をどこかで読んだことがあるなあという感じがあって、それはこの国の文学にはない。自分が思い至ったのは、いしいひさいちの四コママンガで、とくに「バイトくん」シリーズ。どっちも真面目が高じてユーモアが生まれてくるところが共通しているとおもう。真面目な人が真剣になるほどおかしくなるような感じで、小説のいくつかのところで声をあげて笑ってしまったよ。これは俺には珍しい。ユーモア小説、ギャグ小説のたいていは笑わない/笑えないのに。
 作者は釣りと旅館暮らしが大好きみたい。さかんに田舎の宿に泊まっては、番頭や女中と話をしていて、ときに竿をかりて渓流にでかける。大学中退後8年の文学青年生活(というニート)をしていたあたりが、バチガイで余計者という自己規定になったのかなあ。