odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

赤瀬川源平「トマソン大図鑑 空の巻・無の巻」(ちくま文庫) トマソン批評は内輪うけねらいで皮相的な消費運動。リベラルが愛国主義に転向する日本的な運動。

 トマソンについては、赤瀬川源平「超芸術トマソン」(ちくま文庫)を参照。雑誌の連載、単行本出版のあとも各地からの報告があった。いくつか本にしていたが、総集編のようにして、1996年に「無の巻」「空の巻」の二冊を文庫化した。

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 それから20年がたち、もう一度見ると、もう面白がれない。興味がわかない。トマソンの積極的な評価は前のリンク先に書いたので、それを見てもらうとして、今度はネガティブなことを。
 写真のキャプションをみてわかったのだが、トマソンとされた物件の多くは、昭和20-30年代に作られた建物を改装・改築したときに間に合わせで作ったものだった。テレビ番組「劇的ビフォーアフター」などにでてくる、戦前・戦中生まれのお爺ちゃんがむりやり増築した、風呂がないところにむりやり作ったという物件があるでしょ。その結果、段差がひどいとか、動線がめちゃくちゃとか、土台が危ないとかの物件が出てくる。たいていは建築物の中の問題になるが、例外的に外側に露出したのがトマソンというわけ。昭和20-30年代の急ごしらえの粗悪な建築物を、トイレ・風呂・クーラーなどの機器や技術の変化や生活様式の変化にむりやり合わせようとする。そこに作り手の職人気質と発注者の美意識の欠如がああいうふうに出てきたのだろう。そういう建物が一掃されてしまった平成の時代にはトマソンはなくなってしまった。
 このトマソンの運動は、芸術という囲いの周辺に民芸品ともテクノとも異なる美的領域を見出そうとしたものといえるか。その見出し方は、発見の物語と批評だけがあって、制作者との交通は起こらない。発見者と批評者の間でだけ交通する記号だけが残る。それをさらに読者が面白がる。
 トマソン批評は皮相的。とりあえずは権威・権力・伝統などのずらしを行っているように見えるが、当該の「物件」に対し、無責任であるし(保存運動などしない)、意味を無視し(制作者のインタビューをしない)、歴史を無視し(由来の調査をしない)、常識や専門家を無視する。うちわのおもしろがりに始まり、そこで終わる。批評といってもやることは収集と分類。分類の基準や規範の体系化や構築には興味が向かない(なので分類は形状と素材と由来がごっちゃになったそうとうにあいまいなもの)。権威・権力・伝統のずらしをするといっても、それに対抗する価値や意味を作らないし、求めない。
 読者も時に発見者になることがあるけど、たいていは面白がるだけ。発見者、批評者、読者による閉じた輪の中で消費が行われるだけだった。
 なるほど1980年代にはテレビ局の「おもしろ主義」などという広告宣伝文があったように、皮相であることや価値の相対主義を主張することはかっこうよかった。すでにそのときには形骸化していた伝統やマルクス主義をたたいて、日本の経済発展と一体化していることは楽しかった。それは同時におきていたポストモダニズムの主張にも一致していた。なので、本書の中でも「トマソンは日本のものが美しい」「中国やパリにもトマソンがあるが不純」というような言説がでてくる。上のようなうちわの運動がナショナリズム(というか愛国主義)に同化してしまう。批評家になった人たちはべつに愛国主義者ではなく、当時は「リベラル」と目されるような人たちだった。それが経済発展などの恩恵を受けて小金をもつようになると、国家と同一意識を持つようになってしまう。読んでいた時には気付かなかった危険がこのうちわの、日本的な運動にあったのだね。
 こういう運動はなるほど過去にもあって、例えば江戸時代に「わび・さび」という美を見出したのも、こういう閉じたうちわの中で往来する運動であったのかもしれない。そこに着目すると、トマソンの発見はとても日本的だ。