odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

角岡伸彦「被差別部落の青春」(講談社文庫) 1990年代の関西(とくに大阪周辺)の被差別部落のレポ。就学、就職、結婚、出産などで差別にあう。

 部落差別問題のことをほとんど知らなかったので、入り口として読む。いや、過去に本で部落差別の起源や100年前の水平社運動のことは知っているが、<いま>どうなっているのかを知らないのだ。民族差別や人種差別はSNSやネットで流れてくるくらいに目に見えるのであるのだが、こちらは「見えなくさせられている」。ことに自分のような日本人でオスというマジョリティには、見えなくさせられている。
 たとえば、自分の故郷ではかつて部落差別の事件があった。成人になってからようやく事件の記録をみたときに、事件現場や被疑者の住居はすぐに行ける場所ではあったが、事件から20年もたっていると、すでに面影はない。記憶を掘り起こせば、住居のある所に住むクラスメイトもいたが、事件や部落の話は出なかった。なぜかを考えると、その場所は事件後しばらくしてから「開発」され分譲地になり、別の地域の出身者が新たに土地を購入して移住していたのだった。そこに住んでいた人たちは、散り散りになり、どこにいったかはわからない。そういう「同対事業」が行われて、記録も記憶も消えさせられる。

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 本書では、1990年代の関西(とくに大阪周辺)の被差別部落を取材する。様々な人がいる。差別や貧困を経験した老人がいて、同体事業による部落の変化を経験した中年がいて、差別の体験がなく出自を知らされていない若者がいる。部落の出身者もいれば、結婚や就職で出て行った人がいる。部落外の出で部落に移住した人がいる。できるだけ隠そうとする人もいれば、ためらいなく発信する人もいる。同対事業で部落であることを隠すところもあれば、恩恵をうけるところもある。要約すれば、マジョリティの「日本人」と同じようにさまざまな考えと経験を持っていて、一枚岩ではない人の集まり。
 その結果、1990年代には部落は見えない(見えなくさせられた)ようになった。でも、就学、就職、結婚、出産などの共同体との関係を帰るときに、差別があらわになる。ポイントは、差別される側が「選択される側」「許される側」になり、この関係をひっくり返すことはできない(関係の非対称性)。すなわち、日本人は被差別者が自分らの共同体に入るかどうかを「選択する側」にいて、彼らが共同体にいることを「許す側」になる。そのような権力や権威の由来はあきらかではないが、マジョリティである日本人は「選択する」「許す」という特権を行使し、被差別者に押し付ける。そのうえ、「暗い」「じめじめした」「怖い」などの、あるいは「かわいそうな」というステロタイプを押し付け、そのようにふるまうことを強要する。この関係をひっくり返すことをマジョリティはしない。
 差別を許さない。この正義にはみなうなづくのだが、その先をどうするか。<この私>がいないような世間のことであれば、「差別を許さない」と考える。でも、就職、結婚などで身内のことになったとき、「わがこと」になったとき、その正義を実現することが可能か。このルポにあるように、自分はいいけど世間が/親類が反対という理由で差別を実行してしまうことがある。そこまででなくとも、クラスメイトや職場の同僚に被差別者がいるとき、話題にはでないが何となく気まずくなる。では啓蒙や教育で対応可能かというとそうでもない。建前をいうだけでは、人は関心を持たない。ときに教えられて知識は差別に悪用されることもある。では、1990年代に部落出身者も世間も鈍感になり、差別的言辞がなくなってきたので、啓蒙教育は不要かというとそうでもない。知識がないと周りの意見に流されてしまう。21世紀の10年代になって、ネットやSNSに差別的なヘイトスピーチがあふれてくると、それに影響されてほぼ無知なままヘイトスピーチを繰り返すようになる。
 21世紀になって排外主義と自国保護主義が増えてきたので、部落差別の問題が増えてきた。院外の人々と協力して野党は部落差別撤廃の法律をつくるべく、法務委員会で検討しているが、政府と行政がなかなか動こうとしない(なんとなれば、政府と自民党はこの国には重大問題になるような差別はないと国外に向けて発信しているから)。なので改善が進まない。
 加えて、自分自身もこの問題を「わがこと」として考えることが難しい。具体事例を知らないものだから、ステロタイプに流されて、「わがこと」で考えるのがなかなかできないから。それは民族や性の差別でもおなじであるが、SNSやネットでステークホルダーの声や意見を聴く機会が多い。こちらの問題はなかなか聞こえない(見えなくさせられている)ので、体験や具体事例を知る努力をしないといけない。
(被差別者が告白カミングアウトすることがあるが、これは強要してはならない。かつては島崎藤村「破壊」のようにカミングアウトが贖罪や懲罰として行われたのであるし、カミングアウトすることでそれまでの日常が損なわれることもある。なので、沈黙・クローゼットすることもある。それは個人の自由に関する事柄なので、安易に非当事者が要求することではない。自分も相手をみて疾病についてカミングアウトしたりクローゼットにしたりするので、よくわかる。) 

 

<参考>

「差別者が刺し殺そうとしたのは、それはあなた」という言葉が重い。部落であるおれは実際にそこまで酷い差別を体験していないけれど、祖父は幼少期に体験した血税一揆のことを「自分が殺される」事件として家族に語ってたと聞かされている。多くの村は押し寄せる一揆勢に屈せざるを得なかったのだけど

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抵抗した村では虐殺があり多くの死人が出た。その村から峠をひとつ越えた隣の谷筋にあった祖父の部落では、次はこちらに来る、と大変な騒ぎになったと。大人の男以外は原野を抜けて山裾に姿を隠すために走ったそうだ。峠ひとつというその距離は、実際に祖父の家から山を仰ぐとリアルで、真に迫る。
維新後の血税一揆は新政府の様々な政策に反対したもので、部落だけが的になったわけではないけど「穢多狩」「穢多征伐」という言葉が残るように、解放令反対と一体となっていた。
大日本帝国が国土を拡張し外地を増やして行く流れの中で、部落に加えて被差別層も次々と増やされていく。
そして血税一揆の50年後に関東大震災での朝鮮人虐殺が起こる。ジェノサイドはもっと大規模に行われてしまう。
「差別者が次に刺す」相手が、常に準備されてきた国なのだ、この日本は。
あ、自分の祖父ではなく、父の祖父です。おれの曾祖父。維新前に生まれ、1873年血税一揆の時は10歳前後かと

 https://twitter.com/trailights/status/1339232530281553925 から