全集2巻後半の中短編。ポオ20代後半の作品。附録はボードレールのポオ論。
沈黙 1838(1839.10) ・・・ 悪霊が「僕」に語るザイレ川ほとりのできごと。孤独にたたずむ男を嵐や雷鳴で脅すが動じない。そこで沈黙の呪いをかける。睡蓮、風、森、嵐、雷鳴、真赤な月、霧、沼地、岩肌の文字。ポオの愛するアイテムが散りばめられる。
ジューリアス・ロドマンの日記 1840.01 ・・・ 1791年から翌年にかけてジューリアス・ロドマンが記録した日記の抜粋。それは最初の白人によるロッキー山脈踏破の記録であった。内容は当時の博物学記録を模したもの。憂鬱症を持つ青年がコミュニティにいられないので、父の死にあわせて叔父の誘いで毛皮採りに行く。途中で十数名のメンバーを集め、ミシシッピ川を遡上し、深い森にはいっていく。人跡未踏(というのは白人側の都合)のキャンプ生活は楽しくもあり、厳しくもあり。途中スー族に襲撃されそうになったり、別のインディアン(ママ)の捕虜になったり、ガラガラヘビや熊の襲撃にあったりと、一年以上におよぶ冒険旅行は続く。ただ、山脈に登る前に記述は途切れてしまう。なるほど18世紀はアメリカ西部は未開拓であり、発表時においてですらほとんど人の手は及んでいない。このあとにならないと鉄道は敷かれず、ゴールドラッシュによる大量の人口の移動も起こらない。アメリカ西部は北極や南極同様の未踏で未開の地なのであった。およそ事件が起こらず、ジューリアスも思索の人ではないとすると、この饒舌な博物学描写は耐え難い。ジューリアス青年が冒険にでかけるのは何をしていよいのかわからないからという「自己発見」という薄っぺらな動機からであり、途中からは文明の外にでること「先にすすみたくてたまらなくなる」という薄弱なもので、そこに共感を持ち込みにくい。読者が一緒に旅をするモチベーションが生まれないのだ。そのうえ、インディアン(ママ)や黒人に対する差別感情がそのまま発露されているとなると、ますます今日的ではない。スー族の交渉に対して、挑発を繰り返し先に発砲して数人を殺傷するところなど。ジューリアスはその夜は気分が悪くなるが、翌日には反省は消えている。まあ時代とは言え、きついなあ。
そうなると、自分の興味はまえがきのこの日記を入手した経緯だけとなる。このジュ―リアスの記録は、フランスの博物学者アンドレ・ミショオ(1746-1802。著作に「Flora Borealis Americana」などがある)の手に渡るところを著者が回収して机の引き出しにしまっていた。書き手の死後に、ポオのいる雑誌が見つけ、連載した。こういう経緯を説明することが内容の真実性を担保する手続きであったのだろう。
群集の人 1840.12 ・・・ ロンドンのコーヒー店で茫洋としている「私」は、通りを歩く群衆の人々を観察する。類型を摘出し、昼と夜の違いを考察する。ある顔(65-70の老いぼれた男、悪魔の像にふさわしい)を発見。興味を惹かれて「私」は尾行を開始。その老人は雑踏のなかばかりを一日中歩き回る。なぜそんなことをするのか。無名でありながら都市の典型となる「群衆の人 The Man of the Crowd」。都市と群衆にたいする(たぶん)世界初の考察。この小説の読みや解釈は大量にあるだろうから、ここでは省略。自分の関心は、「群衆の人」の顔が悪魔の像にふさわしいという指摘で、凡庸こそが悪になるという認識。もうひとつは都市の雑踏を観察する「私」自身もまた「群衆の人」にふさわしい。観察や尾行もまた、彼の考察にある「罪の象徴、罪の精神」にふさわしい。ポオが創造した「探偵」も観察と尾行の人だった。そうすると、この短編は「モルグ街の殺人」を予告するもの?(wikiに教わったが、老人は剣とダイヤモンドをもっていて犯罪者らしいという暗示もあるのだって)。乱歩や谷崎潤一郎の初期短編を思い出す。この国では1910-20年代にようやく群衆の人を見出すようになったのだね。
煙に巻く 1837(1840.12) ・・・ ハンガリー貴族の学生が酒場でドイツ人を揶揄したので、侮辱されたと感じた相手は決闘を申し込んだ。貴族の学生は手紙のやりとりで、この決闘を煙に巻いてしまう。決闘の処方に関する本の読み方にトリックがあった。これは19世紀のドイツの大学生は学生組合を作り、決闘を良く行っていたことを知らないとちんぷんかんぷんになるかも( 上山安敏「世紀末ドイツの若者」(講談社学術文庫))。ポオの探偵小説集をつくるなら、この作をいれたい。
チビのフランス人は、なぜ手に吊繍帯をしているのか? 1840.12 ・・・ イギリスの田舎に住む準男爵がパリにやって着て、未亡人の貴婦人をくどく。それをみてちびのフランス人はにやにや笑っていて、どうにも腹が立った。田舎者のとんだ失敗。
エドガー・ボオ その生涯と作品(シャルル・ボオドレエル) 1852 ・・・ ポオの詩と小説を翻訳したボードレールの評論。ほとんどはポオの生涯と人となりについて。存命中の関係者の証言もある。書かれたのは1852年。元にしたポオの資料が悪意に満ちた内容だったので、この評論に書かれた事実には誤りが多いという。
「彼の雄弁は、本質的に詩的、整然たる骨法を有して、しかも常にあらゆる既知の骨法の野外を動いて行く。衆愚の魂の訪れぬ世界より位し来った数々の影像の兵器廠、或は明瞭な、誰にでも認容出来る命題から、不可思議な新しい概観を演緯し、驚くべき遠近法を展開さす魁麗な技能である。一言にしていうならば、人をして陶酔せしめ、思索せしめ、夢想せしめ、旧套の泥水より魂を引き離す技能である(P443)」
「エドガー・ポオは、腐敗の燐光と逆風の香気との漏れる、紫色或は緑色を帯びた背景の上に、その図像を動かすのを好んだ。いわゆる不動の「自然」は、生あるものの自然を模して生きたるものの如く、超自然的な平流電気の戦懐に願える。空間は、阿片によって、その深さを増し、阿片は、あらゆる色彩に魔法の感性を与え、あらゆる音響を、最も意味深い鳴響をもって願わせる。時に、荘厳な遠景は光苦と彩色に飽満して、突如として風光の中に姿を現わす(P449)」
あたりが核心かしら。現代の文体とはあまりに違っていて、語彙も今日的ではない(なにしろ翻訳は小林秀雄だ)。ボードレールの主張をうまく掬い取るのは自分にはできかねるが、たぶんボードレールはポオを語ると同時に、自分のことも語っている。自分はボードレールはまるで知らない(むかし「悪の華」を読んだが、特に記憶に残らないほど、詩には鈍感)ので、もう語ることはない。
なお、ボードレールとポオの関係を描いたものに笠井潔「群衆の悪魔」(講談社)があるので、あわせて読んでおくとよい。1849年のパリ革命と、同年のポオの死が共鳴しあいながら、殺人事件を解決するために奔走する青年が登場する。
ちなみにボードレールが「エドガー・ポオ その生涯と作品」1852年でとりあげたポオの作品は、「黒猫」「ユリイカ」「リジーア」「エレオノーラ」「アルンハイムの地所」「アナベル・リイ」「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」。ほぼ登場順。フランスの詩人とロシアの作家の関心領域のずれがおもしろい。ボードレールもホフマンに言及していた。なお、ボードレールが翻訳したポオの作品名はネット検索してもわからない。
<参考>
ボードレールの美学の変遷一一パルザックからポーヘ一一 金崎博子
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/10097/gallia_31_164.pdf
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