2019/08/1 久生十蘭「キャラコさん」(青空文庫)-1 1939年の続き。ここから小説の長さがそれまでの半分になる。1939年7月から。なにかあったのか。紙の配給減少とか雑誌の統制とか。
盗人 ・・・ 卒業後豹変した女学校のクラスメイトから、昔のラブレターを取り戻してほしいといわれる。キャラコさんが懇意にしているひとに送ったもの。家に入れたが苦手な叔母がいて、どうしようか惑う。キャラコさんの心理描写のすばらしいこと。分析的な説明でもなく、ドスト氏のような雄弁・多弁でもなく、ごくわずかな内話と行動。それだけでキャラコさんの焦燥が読者のどきどきになる。
海の刷画 ・・・ 江の島の別荘で避暑にきている4人娘。毎日決まった時刻に沖に出るヨットと、そこで泳ぐイギリス人に興味を持つ。キャラコさんのアイデアで1週間観察することになった。(という謎ときよりも、ヒトラー・ユーゲントのまねをするくらいに、日独が近しくなっているところに注目。大正や昭和一桁の放埓で個人主義の生活に対するアンチとして規律正しい生活は若者に魅力的に見えたのだ。軍事教練も経験しているし。なるほど若者は規律に興味を示し、しばしばファシズムや全体主義の尖兵になる。)
月光曲 ・・・ キャラコさんの家の隣には、ひとりで男児が住んでいる。聞くと両親が別居状態だが、放埓な母が父への復讐のために子供を手放さない。そして居場所を変えて、子供に暴行している。キャラコさんは男児の「星の世界に行きたい」という詩を読んで行動に移る。育児ネグレクトは過去にもあったのだねえ。金のある家庭で起きた不幸は、軍人の父の寛容で解決する(したのか?)。
雁来紅(はげいとう)の家 ・・・ 葉鶏頭(はげいとうを変換するとこのようになるのでタイトルの表記は珍しい)の家で見かけたある絵画。そこにある青年の顔と姿にキャラコさんはひどく魅かれる。胸がどきどきして、絵の青年に恋しているのを感じる。そこでその家に行った。絵とそっくりの青年が待っていた。(普通の小説では続きがあるところで終わっている。それでもこの終りのほうが余韻が深い。十蘭の、どこで小説を終えるかの眼と技はすごい。)
馬と老人 ・・・ 毎日キャラコさん宅のよこにある公園にやってくる老人と老いぼれたびっこ(ママ)の馬。老人の親密な世話に感動したキャラコさんは、長人参で老人の関心を釣ろうとしたが、老人の幸福な夢想(贅沢な口で長人参は食わない)のためにさしだせない。
(もともとは老人と馬への憐憫で出た他者への介入を、相手のプライドを尊重して取りやめた。もともとの意図は挫折。ではキャラコさんはどのようにして老人に対応するべきだったか。むずかしい。でなおして対等の関係を結ぼうとすることになるのか。)
新しき出発 ・・・ 大金持ちの遺産相続の手続きが終わり、キャラコさんの手に金が入った。使い道がわからないので、とりあえず中国での慈善活動に参加することにする。これまでに関係のあった人たちを招いて(みな幸福になったらしい)、パーティをすることにした。「蘆と木笛」でキャラコさんを邪険にした娘だけが来ない。一人で孤独に子供をうむところだった。みなで応援に行く。
後半になるとキャラコさんの存在がどんどん希薄になっていくようだ。それこそ善意だけが浮遊しているような。それはおそらく、大金持ちになることが決まっていて、彼女が現実の利害を超越したところに行ったからではないか。地上の人たちは上流階級であっても、利害や好悪に生活が左右されて(ほとんどの登場人物には労働と活動@ハンナ・アーレントがないことに注意)、感情敵になる。キャラコさんは貧乏と大金持ちという彼らの生活から外れたところにいるので、自分の利害にとらわれることがなく、社会正義や善を実行することができる。もしかしたら、ロールズの「無知のヴェール」にある人ともいえるか。
次第にキャラコさんの存在が希薄になる感じは、彼女の善や正義があまねく普遍的になっていって抽象化していくところから生まれているようだ。それは筒井康隆の「家族八景」「七瀬ふたたび」「エディプスの恋人」の主人公である火田七瀬の生き方をなぞっているように見える(歴史的にはキャラコさんが先)。読心力を持つ七瀬は選ばれた存在であり、人間の関心や利害を超越している。隠そうとしても隠し通せない力は、人に知られることになり、人間の存在を超越して神に合一するところまでいってしまった。同じように、キャラコさんも昭和14年の日本社会にはいられなくなる。彼女が行くことに決めた中国は実在する場所ではなく、社会から遠く離れた超越的な抽象的な場所なのだと思う。もうキャラコさんは生活の場にはいられないのだ。
そこまでの読みはしなくとも、魅力的なキャラクターが出てくる小説だが、どうも戦後は単行本になっていないようだ。「女の手」のミソジニーやセクシズム、「海の刷画」のヒトラー・ユーゲントは21世紀には合わない。キャラコさんが体現する女性像(献身、自己犠牲、シャドウワークの引き受けなど)も女性差別を温存する考え。良い文章で書かれていて、ときにトリッキーな構成の妙も楽しめる名匠の作ではあるが、いま広範に読まれるようなものではない。残念だけど。
(他人との関係の持ち方を考える「雪の山小屋」「盗人」「雁来紅(はげいとう)の家」「馬と老人」の四作がよかった。)
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