odd_hatchの読書ノート

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中井英夫「虚無への供物」(講談社文庫)-3 「事件は終わった。しかし、なにか割り切れぬうそ寒い気持ちだけが残った」。犯人にされた「読者」は何を思う?

2019/10/29 中井英夫「虚無への供物」(講談社文庫)-1 1964年
2019/10/28 中井英夫「虚無への供物」(講談社文庫)-2 1964年の続き
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第4章 ・・・ 藍司が息せき切って急いだのは、八田を詰問するためで、実のところ死んだはずの黄司とつながっていたのは八田であり、黄司はすでに序章に登場していたアラビクのおキミちゃんであり、アラビクのお花婆さんも手伝っていて、役割が無くなったお花婆さんは老人ホームの火災で増えた死体なのである。黄司は八田と共謀して藍司を殺したのであるが、同時に八田も手をかけ、紅司のノートにあった方程式を使った密室殺人を企むのである・・・というのは、牟礼田の「凶鳥の死」の書きかけの原稿。3月31日に久生、亜利夫、牟礼田が集まって検討会。市川のS・・精神病院にいくと、そこには収監された爺やがいて、知らぬはずの氷沼家マーダーの行く末を正確に話す。それは経典に書いてあるからと、蘊蓄情報に書いたものを見せる。それが真実であるかどうか、6月18日に精神病院は焼失し、爺やも犠牲者となってはわからない。4月11日、久生が亜利夫に新しい情報を寄せる。すなわち橙二郎被害の夜、ラジオは聞いたはずのシャンソンを流しておらず、つまりは藍司がテープに録音したものを流したのである。そうすると、黄司と共謀していたのは藍司にほかならず、蒼司が危ないという。売却の決まった氷沼家にいけば、その藍司が風呂場の外で奇妙な仕草を。詰問しようとするところを牟礼田が押しとどめる。
蘊蓄情報:横溝正史「真珠郎」、雪・月・花、仏説聖不動経、多数のシャンソン


終章 ・・・ 4月17日。蒼司のアン・バースデー・パーティ(兼氷沼家解体式)。久生は真犯人を告発しようと意気込むが、牟礼田は気乗りしないようで先に帰る。久生と亜利夫は蒼司、藍司のいる氷沼家で事件の解決を行う。続いてそれぞれがそれぞれを告発する。真犯人の告白。そして失踪。7月21日。牟礼田はフランスに戻ることに(久生との結婚は延期)。久生、亜利夫らはこの一連のできごとを「探偵小説」として書くことを決意。

 

 

 「事件は終わった。しかし、なにか割り切れぬうそ寒い気持ちだけが残った@黒澤明「天国と地獄」予告編」という思いに至るのは、終章の「解決」を読んでも、探偵小説的な快楽を得られないから。なるほど、いくつかの事件の真相はあきらかになったし、密室の謎は解けたし、真犯人の告白でおよそ「続・幻影城」にはなかったような動機で事件を起こしたことも明らかになる。
 でもさ~、あれほど小説内で、あの事件が、あの痕跡がと話をしていたのに解決編で話題にもならないのはなぜなの? あの暗号が、あの象徴するものが、と喧々諤々の話を聞かされたのに、それが全く生かされていないのはなぜなの?
 とりわけなんとも困るのは、

「真犯人はあたしたち御見物衆には違いない」
「本格推理長編の型どおりの手順を踏んでいって、最後だけがちょっぴり違う―――作中人物の、誰でもいいけど、一人がいきなり、くるりとふり返って、ページの外の『読者』に向って『あなたが犯人だ』って指さす、そんな小説にしたい」

というところ。これは真犯人の告白によって喚起された探偵の感想。それは小説を書くという動機であって、それを発見した探偵が「探偵小説」を書いたのがこの「虚無への供物」に他ならない(その点では、サルトル「嘔吐」、プルースト失われた時を求めて」のような小説を書く動機を探す物語の系譜につながる)。
 で、その真犯人のいう「真犯人はあたしたち御見物衆には違いない」という論理がきわめてわかりにくい。俺なりに要約すれば、人の死の無意味さは文字通り戦慄するべきもので、人の死にはせめて殺人事件の被害者になる程度の意味がなければならない。そこで、無意味な死を死んだ自分にとっての<あなた>の死に意味を持たせるために、<あなた>を心底憎んでいた(と<わたし>が考えた;だれかの意見を聞いたとか、対話したとかの痕跡なし)第三者である<かれら>のひとりを殺すことにする。それでもって<あなた>の遺志は達成され、実行した<わたし>の空虚、虚無は埋められ、人間(たぶん一般)の誇りが守られる。これは倒錯であるのかもしれないが、現実(1954-55年)の無意味な大量の死を見よ。人の不注意やミス、自然災害、あるいは凶悪犯によって数万人?の死が起きているではないか(洞爺丸台風その他)。世界がそのような無と不条理で満ちているのには耐えられない。
 書き起こしても見ても滅茶苦茶な論理と自分勝手な設定であって、到底承認できるものではない。事件の10数年前には戦争でより大量の無意味な死が起きたのだし、そこには死を日常的にし、死者をつくる側になるように命令した側がいたのだが、真犯人は彼らに責任を問うことはしていない。そこをあいまいにしていいのか。それに、現在の大量死において死の責任追及や意味付けをすることになると、それこそ生者のほぼ大半が責任をもつことになり、それは生活や活動を継続する論理にはなじまない(法に触れることはない)。
 もうひとつ真犯人の考えの倒錯を指摘すると、「無意味な死は耐え難い」のであれば、「意味ある死」は許容すべきで実行すべきかということになる。では「意味ある死」の内実は? それこそ、国家や共同体の存続のために自己犠牲になる死くらいしか意味を付けることができないのではないか。そこから「軍国主義」時代の特攻隊や女子挺身隊などを命令する論理まではわずかな差しかない。前の節の疑問も加えると、この真犯人は被害者や弱者を装っているが、その心情と論理は権力者、独裁者のそれとほとんど同じ。ここはきわめて注意しないと。
 真犯人は返す刀で、無意味な死を見物する群衆を断罪する。おまえらが「無意味な死」を死ぬ人を目撃しながら、エンターテインメントとして消費し、次の瞬間には忘れ、別の無意味な死をみては感情をだだ漏れにする。安全地帯にいて、虚無の深淵をのぞき込む勇気を持てないのに、死を消費して浮かれ騒ぐおまえらこそ、「無意味な死」を「意味ある死」に変える<おれたち>のことを理解しもしない。おまえらの無関心さ、無責任さこそ、<おれたち>の倒錯を助長し犯行に仕向けた『真犯人』に他ならない、と。これも同様のむちゃくちゃで自分勝手な設定。法的・倫理的にはそこまでの責任を見物衆に求めることはできない。なにしろ俺はこの小説の舞台になった1954-55年には生まれてもいないしなあ。「まだ生まれぬ子供」に現代の行為の責任を押し付けることはできないでしょう。
(とはいえ、無関心、無責任な見物衆が起きている事態にそのような態度であってよいかとは言えない。人権侵害がおきているときには、見物衆が侵害している者に叱責や抗議をしなければならない。ただしその行為をする論理は上の考えから導かれるものではない。別の参加や関与の論理がある。)

 

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2019/10/24 中井英夫「虚無への供物」(講談社文庫)-4 1964年