odd_hatchの読書ノート

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中井英夫「虚無への供物」(講談社文庫)-1

  作者曰く、1955年にこの構想が一気にまとまったにもかかわらず、なかなか書き進めず、第2章までのところで乱歩賞に応募したのが1962年(次席)。増補して現在の形(原稿用紙1200枚)で出版したのが1964年。評価は芳しくなったが、埴谷雄高の文で再評価開始。以後は、戦後探偵小説の傑作とされる。講談社文庫は1974年にでたが、他になんども豪華本ででた。むかし塔晶夫名義の分厚い本を見たことがある。
 小説は序章と終章に挟まれた4つの章で、ひとつの章は10の節がある。合計60の節を個別にまとめると煩瑣になるので、章ごとにサマリーをつくってみよう。

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序章 ・・・ 1954年12月10日。下谷竜泉寺のゲイ・バア「アラビク」で、光田亜利夫、奈々村久生が氷沼藍司を待っている。氷沼家は代々の当主が変死する呪いがあり、北海道に関係しているという。なんでも藍司の曽祖父がアイヌ狩をしたためらしい。藍司の近辺にもアイヌの姿が。彼らの両親、叔父伯母は洞爺丸台風事故で無くなり、巨大な目白の氷沼家は閑散としている。探偵趣味の活動的なお嬢さん・久生は「ザ・ヒヌマ・マーダー」がこれから起きると予言して、亜利夫に氷沼家の内偵を命じる。
 氷沼家の祖父・光太郎は宝石商。家族に誕生石にちなんだ色の名前を付け、屋敷の二階にはポオ「赤き死の仮面」を模して色の名を付けた部屋がある(白と黒はない)。薔薇園(ローゼン・ガルテン)も敷地内にある。f:id:odd_hatch:20191029090051p:plain
・蒼司:両親の死にショック。応用数学専攻
・紅司:アイヌの呪いを恐れる。早稲田の英文。心臓病。「狂鳥の黒影(まがとりのかげ)」という探偵小説を構想中。
・藍司:蒼司、紅司の従兄(父が兄弟)。
・橙治郎:3人の叔父。漢方医。星占いに凝る。
 大人が相次いでなくなったので(広島原爆、洞爺丸台風など)、家のことは中年太り気味の八田晧吉(家屋ブローカー)に任せている。12月26日。旅に出ていた久生に亜利夫が「死んだぞ」と伝えると、久生はだれが死んだか、だれが犯人か知っているとうそぶく。
蘊蓄情報:誕生石、花ことば、ポオ「赤き死の仮面」「アッシャア家」「大鴉」、シュニッツラー「輪舞」

 

第1章 ・・・ 12月22日。氷沼家に5人(紅司、藍司、橙二郎、亜利夫、藤木田老)が集まる。全員が二階にいて、階下に降りるには「オルガン階段(踏むと音が出る)」と使わないといけない。ひとり降りた紅司が入浴していたが、倒れているのが発見。漢方医の橙二郎が死亡を確認。そのように処理された。というのも、浴室はふたつの鎌錠で施錠、水道出しっぱなし、洗濯機に泡、赤い毬はいづこからか出現という密室状況。蛍光灯が点滅、電話が不通になるがすぐに回復という事態もあった。久生らは殺人事件と考え、素人たちで推理合戦をすることを提案。そのさいに、ノックス十戒ヴァン=ダイン20則、乱歩「類別トリック集成@続・幻影城」に則ってやろうと縛りを入れる。十日後の1月6日にアラビクの二階に集まって披露。推定犯人は、童子・死(んだことになっている)者・被害者自身・紅司の文書にある架空の人物等、百花繚乱。事件ののちに蒼司は家を売ることにして、内装をリフォーム(という言葉は使っていないが)する。結果、ポオ「赤き死の仮面」の見立ては消える。紅司は花弁が光る薔薇を育成中で、開花したら「虚無への供物」の名を付けるつもりであった。藤木田老は、「カナリア殺人事件」「アクロイド殺し」にならって、橙二郎にマージャンを誘い、心理試験をすると提案する。
蘊蓄情報:目白・目黒・目赤・目青・目黄不動、「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」、花の三原色、ハクスリー「知覚の扉」、小栗虫太郎「完全犯罪」スタインベックエデンの東」、映画「原始怪獣現る」


 上のサマリーに書き込めなかった事情を追記しよう。蒼司、紅司、藍司(これから生まれる緑司)の世代の上、彼らの父母らの話。祖父・光太郎の事業は成功し(彼のなじみの友人が第一章にでてくる藤木田老)、莫大な財産になる。紫司郎、菫三郎は仲が良いと見えたものの、小説の始まる直前の洞爺丸事故で溺死している。その結果、目白の巨大な家に住む人が激減。なにしろ残った息子たちはいずれも学究の道に入り、事業への興味はない。かつて豊穣だった家も当主が死に、父権の喪失とともに生産性を失っているわけだ(宝石商事業は売却、本家は道楽で蓄えをなくし収入ゼロ。末弟の橙二郎は事故には合わなかったものの、家と病院を火事でなくしている)。事故後たった三カ月で家は衰弱しきっている。そういう場所であることに注意。
 この兄弟には朱美という一人娘がいたが、彼女は戦前昭和のモガ。共産党崩れと駆け落ちし、子を孕んで家に戻る。相続権を要求したが、広島原爆で母子ともになくなった(ことになっている)。この目覚めの悪い事件も家には不吉な影を落としている。
 まあ、曾祖父(誠太郎)から始まった家も三代、四代続くと、没落していくわけだ。事業への興味、次世代へ継ぐ意欲も薄れ、蒼司・紅司・藍司の代になると、家を離れることを要望している。こういう解体過程のどん詰まりに事件が起きて、一見平穏な家の確執や妄執が出てくるのだね。
(この小説の少しばかり異様なところは、女性の主要登場人物が久生ひとりであること。氷沼家の系図を書くとき、女性はほぼ無視される。例外は朱美と呼ばれるモガひとり。蒼司、藍司の世代には女性姉妹は一人もいないし、彼らは勉強はできるが、恋愛には興味がない。男ばかりの家族と仲間たちであるが、体育会系の強い上下関係はないものの、感情の行き来は深い。小説を読んでいる間は気づかなかったが、読了後に振り返ると特異な集まりの間で起こる物語であった。)

 人は華麗な蘊蓄話に興味を惹かれるようだが、自分は著者の達意の文章に驚愕。この文章の書き手はただものではない。文学の修練を積んでいる人だ。そのうえ、さらには伏線の回収が巧みで、序章のとくに本筋ではないだろうと思った記述がとおく第4章で明らかになったり、「不思議の国のアリス」の見立てがあるとか、雪・月・花の季題が作中のできごと(おもに探偵役が集まっての検討会)に対応するとか、小説の技術も見事。
 そこらに落ちているミステリーとは比べ物にならない文章の密度と技術なのだ。これは時間をかけてゆっくりと味わうに限る。

  

    

2019/10/28 中井英夫「虚無への供物」(講談社文庫)-2 1964年
2019/10/25 中井英夫「虚無への供物」(講談社文庫)-3 1964年
2019/10/24 中井英夫「虚無への供物」(講談社文庫)-4 1964年