odd_hatchの読書ノート

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奥泉光「『吾輩は猫である』殺人事件」(新潮文庫)-2

2019/11/14 奥泉光「『吾輩は猫である』殺人事件」(新潮文庫)-1 1996年

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  新聞などから解る事情はこういうこと。1905年11月23日。夕方客のあったあと自室にこもっていた苦沙弥氏は翌朝頭を殴られて死んでいるのが発見された。家屋は内から戸締りがされていて、部屋の中は物色された様子(日記などが紛失)。一輪の百合の花が持ち込まれていた。細君は夜の異常に気付かない。そのうえどうやら同じ日に「吾輩」はビールで酩酊して甕に落ちたのだが、誰かに救われ、そのうえ他の猫と一緒に船に乗って上海まで送られたと見える。
 猫たちの調査によって判明したのは、苦沙弥が高等学校時代に同じ学寮にいた7人の仲間の内3人が怪死を遂げ、一人が発狂している。となると、この7人を抹殺するための長期にわたる殺人計画が進行しているらしい。さらに苦沙弥の家では事件の前に山の芋が盗難にあうという事件があり、遡るとこの家の借主は頻繁に変わり、出ていく理由は親と子の幽霊が出るからであるという。
 猫たちは、苦沙弥殺害事件の容疑者を出入りしている迷亭、寒月、独仙、鈴木、多々良など7人に絞る。彼らの動向を調べると、迷亭が事件直後に上海に入っていて、ほかのメンツも「吾輩」を追うように上海に来ていた。
 猫たちは苦沙弥殺害事件の謎を解こうと「吾輩」の話を聞いて張り切る。そのためには、苦沙弥の日常を詳しく知りたいといい、「吾輩」は問われるまま一夜で語りつくす。さらに上海に来るために乗ってきた「虞美人丸」のできごとも知りたいということで、催眠術をかけられる。そのような問わず語りによって、漱石版「吾輩は猫である」が制作された理由がわかり、催眠術によって思い出した深層意識は「夢十夜」のそのままであった。船の名が「虞美人」であることも含めて、現実世界の漱石が書いたテキストが本書の中に幾重にも張り巡らされる。「天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先の御かさんの甥の娘」のギャグが繰り返され、寒月の研究する曖昧模糊とした研究が本書では重要な手掛かりになり、鼻毛を原稿用紙に植えたのまで書かれているのであるとすると、この引用やパスティーシュについてこられるかと読者もまた作者に挑発されているのである。
 漱石のテキストに限らず、本書に出てくる固有名を挙げてみれば、アインシュタインフロイトH.G.ウェルズ(「タイム・マシン」)、パブロフ、モロトフ明石元二郎、ラスプチン、(西田幾多郎の)「純粋経験の絶対矛盾的自己同一」、井上円了幸徳秋水、彗星衝突デマなどがあり、さらに日露戦争の推移とその後まで書かれている。すなわちテキストで1905年から6年を再現しようという意思が働いていて、蘊蓄・博識を隠さない。文体も漱石版「吾輩は猫である」を模写していて、1990年代のエンタメとは一線を画した読みでのあるものになっている。それらを咀嚼できるかどうか、作者による「読者への挑戦状」が置かれている。
 次第に明らかになるのは、寒月が例の論文をもとにした秘密研究を行っており、新兵器を軍用にしようと画策していること。迷亭以下の連中は日露戦争のどさくさに紛れて麻薬の密売に関与しているのであり、「吾輩」が上陸後に迷い込んだサーカスにおいて目撃したフェリーニ「道」のごとき大道芸人(および連れている「バルカヴィルの黒狗」)が麻薬密輸団に一枚かんでいるらしいこと。
 そして、苦沙弥殺害事件もまたこのいくつかの陰謀において起きているらしいことが推測される。
(猫の推理合戦や麻薬密輸船へのアタック・アンド・エスケープは労働ではなくて、知的好奇心を満たすため。彼らの退屈をまぎらわすための一時の快楽。そこにおいて人の死は意味をもたず、記号として存在する。まるで探偵小説を読むように、猫はリアルな事件を消費する。この知的蕩尽を批判するために、一つの死体に対して50万の死体を生み出した日露戦争のバカさを指摘する猫もいたが、目前の快楽のためには目に見えない死体は存在しないも同然なのであった。ここも探偵小説に対する批判として読める。)

 2019/11/11 奥泉光「『吾輩は猫である』殺人事件」(新潮文庫)-3 1996年