まえもって夏目漱石「吾輩は猫である」を読んでおいた方がいい。なので、未読の人は本書を読むのは後回しにすること。
猫の「吾輩」はビールに酔っぱらって水死したはずである。「吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい」という述懐をしまいにしたはずであるが、吾輩は暗闇のなか目を覚ます。そして船は上海につき、野良として生活を再開する。上海は国際都市であって、世界中(とはいえ西洋と日本の帝国主義国家に限定される)の人々が集う。彼らはペットを飼っているのであって、当然世界中の猫も集まるのである。
そのため、国際都市上海で、「吾輩」は世界中(上記の制限付き)の猫と親交を結ぶことになる。すなわち、ロシア貴族に飼われているマダム、プロシャのモルトケに飼われていた「将軍」、フランス貴族に飼われていた「伯爵」、イギリスから忍んできた「ホームズ」と「ワトソン」、孫文(ここでは損吻)に飼われていた地元の「虎」が代表であり、そこに日本の「吾輩」が加わる。彼らの背景がそのまま1906年(日露戦争終結の翌年で、「吾輩は猫である」連載の翌年)の世情につながる。彼らがそれぞれの国の代表であるかのようにふるまうために、それらの国の当時の雰囲気がよくわかる。ここでは彼ら猫は個性を持っているのではなく、ステロタイプ化された類型を演じているのであるが、その方法は成功している。「ホームズ」「ワトソン」のような著名キャラクターを再演させ、「将軍」「伯爵」「マダム」という類を演じさせることで、描写の手間を省き、しかしその象徴するものを髣髴させるのである。まあ、中江兆民「三酔人経綸問答」のように世界情勢や陰謀を描くにはこの方法はぴったりなのだ。
その結果、漱石版の「吾輩は猫である」では駄弁、半畳、饒舌をするのは人間たちであったが、奥泉版では猫たちが代わりにしゃべりまくる。とりわけフランス育ちの「伯爵」とプロシャ生まれの「将軍」に著しい。「ホームズ」は本家の探偵よりも慎重であるぶん多弁になり、「ワトソン」の引き立て役の助けもあって蘊蓄の披露に拍車がかかる。彼らは人間よりもナショナリストであって、国家や民族に対する帰属意識が高く、他民族への反発心・対抗心も強い。それは地元の「虎」がそうであるし、もちろん日本男児であることを意識する「吾輩」もそうなのだ(この時代に明治の青年は海外雄飛を実行していたのである。押川春浪「明治探偵冒険小説集3」ちくま文庫、神山典士「ライオンの夢 コンデ・コマ=前田光世」小学館参照)。それは当時の帝国主義戦争を反映しているのであるといえよう。
とはいえ、猫族に脅威が降りかかってきたときは(狗に襲われるとか人間に追っ払われるとか猫狩りで仲間が消えるとか)、反発や対抗を棚上げして、一致協力して事に当たるのである。
そこまでの脅威がないときは、うわさ話に花を咲かせ、ことに「異人」には根掘り葉掘りで身の上話を聞くのである。その格好のネタになったのは、意識朦朧として上海にやってきた名無しの「吾輩」なのである。とくに、「吾輩」が記憶を喪失していることと、「吾輩」は死んだと思った日に、飼い主の苦沙弥が撲殺されたことに対して。
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2019/11/12 奥泉光「『吾輩は猫である』殺人事件」(新潮文庫)-2 1996年
2019/11/11 奥泉光「『吾輩は猫である』殺人事件」(新潮文庫)-3 1996年