odd_hatchの読書ノート

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米川正夫「ドストエーフスキイ研究」(河出書房)-2 個人約全集を出版した訳者による研究書。第2部は作品論。ロシアの特殊事情を無視した普遍化・象徴化。

米川正夫ドストエーフスキイ研究」(河出書房)-2 個人約全集を出版した訳者による研究書。第2部は作品論。ロシアの特殊事情を無視した普遍化・象徴化。2019/11/26 米川正夫「ドストエーフスキイ研究」(河出書房)-1 1958年の続き

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 続いて第2部は作品論。取り上げたのは以下。
貧しき人々/分身/プロハルチン氏/主婦/弱い心/白夜/伯父様の夢・スチェパンチコヴァ村とその住人/虐げられし人々・死の家の記録/夏象冬記・地下生活者の手記/罪と罰/白痴/悪霊/未成年/おとなしい女・おかしな人間の夢/カラマーゾフの兄弟
 主要作品を網羅。漏れているのは「賭博者」「永遠の良人」くらいか。「研究」にまとめられる文章に先立って全集全作品の解説を書いていて、この二篇にも触れているので漏れはない。できれば、「作家の日記」は創作だけではなく、記事も取り上げてほしかった。ドスト氏のスラブ主義や反ヨーロッパ、反社会主義反ユダヤ主義はきちんと把握・周知しておくべき。そうしないと、悪霊の「ニヒリスト」たちも、カラマーゾフの兄弟たちもよくわかならくなる。
 米川の作品論は、ストーリーのサマリー、主要人物評が主、ときに他の人たちの評を参照。個別作品の米川の評価はまとめることもない。ロシア文学の衝撃を受けた最初かその次の世代(1891年生まれ)であって、全面的に受け入れて消化しようとしている時期。そこに20世紀の日本近代文学の自我や自由の問題を組み合わせている感じです。
 21世紀に読んでみた素人の感想、というか言いがかりをいくつか。
 ドスト氏の特長をヒューマニズム心理主義、都会性、空想などの言葉で言い表すのだが、いまとなっては曖昧でぼんやりした概念になっている。その時代(昭和初めから30年代)では有効な批評の言葉であったはずなのに、そのあとの経験や知識に照らし合わせ社会の変化を重ねると、これらの言葉や概念が伝わる範囲がとても狭くて、貧しいことになる。たとえば「ヒューマニズム」。人間性の重視? それは法や正義にどう関係するのか、どのような社会合意を形成するべきなのか、どのようにコミュニティに参加するのか。そういう政治や社会へのかかわりを考えると(でないとラスコーリニコフの犯罪を弾劾できないし、彼を更生できないでしょ)、今では使えない。自由や愛もそう。
 くわえて、ドスト氏が反発した自由主義、民主主義、社会主義に対する理解と説明も不足。なぜスチェパン氏@悪霊がペテルブルクのサロンでバカにされるのか。それは19世紀初頭にロシアに導入された18世紀フランスの自由主義が、19世紀半ばに導入された社会主義に賛同する若者たちに賛意を得られない状況があったからだ。それが米川の解説ではすっぽりと抜ける。
 さらにはドスト氏の信奉したロシア(ギリシャ)正教の理解と解説も不足。転じて彼が批判するローマ・カトリックに関してもそう。ギリシャ正教高橋保行「ギリシャ正教」(講談社学術文庫)くらいしか読んでいないが、参考になる。大審問官やゾシマ長老@カラマーゾフの兄弟も東西のキリスト教の争いとしてみる見方は必要。
 米川はドスト氏の創造したキャラクターを人間存在の典型や象徴のようにみる。彼に限ったことではないが、ラスコーリニコフを知的犯罪者とするとか、カラマーゾフの兄弟を知・情・意の三典型に当てはめるとか。そういう普遍化や象徴化をするのは異論はない(なにしろそのような複雑怪奇なキャラクターを想像できたのはドスト氏くらい)。その前に、彼らがスラブ人、ロシア人であるというところを押さえておいてほしい。アリョーシャが善や義の人であるのはそうだけど、ロシア正教の信仰者であるのを抑えておくのは必要。
 という具合に、普遍化・抽象化の前に、ロシアの特殊事情がある19世紀半ばに書かれていることに留意しようという感想です。


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 米川は大正時代からのロシア文学紹介者。中村白葉などといっしょに紹介普及につとめた。「研究」の最後に年譜が載っている。膨大な翻訳書を作った。仕事熱心な人だった。誠実でまじめな成果。でも、正確さがドスト氏の破天荒さを減じているところがある、語彙が古い(謡曲を趣味にしているそうで漢学の素養もあった)などで、最近はあまり読まれない。没後50年を過ぎたので、彼の翻訳はパブリック・ドメインになった(いくつかが青空文庫にでている)。