odd_hatchの読書ノート

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フョードル・ドストエフスキー「おとなしい女」第2章(米川正夫訳)

フョードル・ドストエフスキー「おとなしい女」第1章(米川正夫訳)の続き。

 

第2章
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 1 傲慢の夢
 

ルケリヤはたった今、このままわたしのところに住みつこうと思わない、奥さんの葬式がすんだら、早速お暇をいただくと言明した。わたしは五分ばかりひざまついて祈った。一時間も祈っているつもりだったが、のべつ考えて考えつめている。それも病的な考えばかりなのだ、病的な頭、――これではお祈りしたって仕方がない、――ただ罪になるばかりだ!同じく不思議なのは、いっこうに眠くないことである。大きな、あまりに大きな悲しみの中では、最初の強烈な燦発の後では、いつも眠くなるものだ。死刑の宣告を受けた者は、最後の晩に異備によく眠るという話である。そう、それはそうなければならぬはずで、それが自然にかなっている、さもなければ、とてもたえきれないだろう……わたしは長いすに横になったが、結局、寝つけなかった……

――――――――――――――――――――――――――

……その当時、病気の六週間というもの、わたしたち、というのはわたしと、ルケリヤと、病院から屈って来た学校出の看謹姉と、それだけが、昼となく夜となく彼女の看病をした。わたしは金に糸目をつけなかった。むしろ彼女のために金を費いたかったくらいである。医者はシュレーデルを呼んで、一回の往診に十ルーブリずつ払った。彼女が意識を取りもどしてからは、わたしはできるだけ彼女の目にふれないようにした。だが、いったいわたしは何をこまごまと描き立てているのだ。彼女はいよいよ床を離れると、やはりわたしがそのとき彼女のために買って来て、わたしの部屋に据えておいた特別のテーブルの前に、静かに黙って腰をおろした……そうだ、わたしたちが完全に黙り込んでいたのはほんとうである。といっても、後で口をきくようにはなったが、――しかしありふれたことばかりであった。わたしはもちろん、わざと口数を減らすようにしていたが、彼女のほうでも、よけいなことをいわないですまされるのを、喜んでいるらしい、それがよくわかった。彼女としては、それがまったく自然であるように思われた。――「あれはあまり激動を受けたのだ、あまりに打ち負かされたのだ」とわたしは考えた。「もちろん、なるべく早く忘れさせ、価れさせるようにしなければならぬ」こういうわけで、わたしたちは黙っていたが、しかしわたしは心のうちで、将来の準備をすることを、瞬時といえども忘れなかった。わたしは彼女も同じだろうと考えた。わたしにとっては、あれはいま腹の中で何を考えているのかな、と推察するのが、かぎりなく興味ある仕事だった。

もう一ついっておくが、おお、もちろん、彼女の病中、わたしがどんなに彼女の枕頭で坤吟しながら、苦痛を忍んできたかは、だれ一人知るものはないのだ。しかし、わたしは腹の中で坤吟したので、その呻き声を胸の中で圧し殺し、ルケリヤにさえ知られないようにした。彼女がいっさいを知らずに死んでしまおうとは、わたしとして想像することも、仮定することも、できなかった。彼女が危険の域を脱して、健康を恢復しはじめるにおよんで、わたしは忘れもしない、たちまちすっかり安心してしまった。のみならず、わたしは自分たちの将来をできるだけさきへ延ばして、当分はなにごとも現在のままにしておこう、と決心した。そうだ、そのときわたしの心中には何やら奇妙な、特殊なことが起こったのだ。どうも、そうよりほかにいいようがない。――わたしは勝ち誇っていて、その勝ったという意識だけで、十分満足なのであった。こんなふうにして、一冬は過ぎた。おお、わたしはかつてそれまでなかったほどに満足であった。しかも、それが冬じゅうつづいたのである。

さて、わたしの生涯には、一つの恐ろしい外面的事憎があって、それがその時まで、つまり妻の事件が起こるまで、毎日毎日わたしの心を圧していた。というのは、ほかでもない、――名声を失墜して、連隊を追い出されたことである。一言にしていえば、わたしに対して暴虐な不正が行なわれたのである。もっとも、わたしは重苦しい性格のために、同僚たちからきらわれていた。あるいは笑うべき性格のため、といったほうがいいかもしれない。なにしろ世の中には、当人にとっては高尚なもので、心の底に秘蔵し尊重しているものでも、同時になぜか、仲間の連中を笑わせるような場合があるものである。まったくのところ、わたしは学校時代にも、ついぞ人から愛されたことがなかった。わたしはどこへ行っても、いつもきらわれものであった。わたしはルケリヤにまで好いてもらえないのだ。ところで、連隊での事件は、わたしが毛嫌いされていた結果とはいい条、疑いもなく偶発的性質をおびていたのである。わたしがこんなことをいうのは、あり得たかもしれぬが、またあり得なかったかもわからないような偶発事のために、――浮雲のごとくかたわらを通り過ぎたかもしれない事情の、不幸な堆積のために身を滅ぼすほど、瓶にさわる、我慢のならぬことは、ほかにないからである。知識階級の人間にとっては屈辱である。事件というのは、次のとおりであった。

ある劇場で、わたしは幕間に食堂へ行った。軽騎兵のAがとつぜん入って来るなり、そこに居あわせた大勢の将校や公衆の前で大声に、仲間の軽騎兵二人を相手に、わが連隊のベズームツェフ大尉が廊下でたったいま醜態を演じたが、「どうやら酔っぱらっていたらしい」と話しだした。その会話はちぐはぐなまとまりのつかないものでおわったし、それに第一、話が間違っていた。というのは、ベズームツェフ大尉は酔っぱらっていなかったし、醜態というものも実は醜態ではなかったのだから。軽騎兵たちは別の話をしだして、それでおしまいになった。ところが、翌日になると、そのうわさがわが連隊にまで聞こえた。すると、連隊ではさっそく、この隊のものでそのとき食堂にいたのは、わたし一人きりであったにもかかわらず、A軽騎兵がベズームツェフ大尉のことで生意気な口をきいていた時、わたしがそのそばへ近寄って注意をしたうえ、その話をやめさせなかったのはけしからんといいだした。しかし、いったいなんのためにそんな必要があるのだ?よしAがベズームツェフにふくむところがあったとしても、それは彼らの私事であって、わたしがなんでそれに捲き込まれねばならぬのだ?しかるに、将校たちは、それは私事ではなくて連隊に関することだ、といいはじめた。そして、そこに居あわせたわが連隊の将校はわたし一人きりだったから、わたしはそれでもって、そのとき食堂にいた将校や公衆一同に、わが連隊には自分の名誉や、連隊の名誉に対して、あまり敏感でない将校もあり得ることを証明したものだ、とこういうわけである。わたしはこうした断定に服することができなかった。みんなはわたしに向かって、少々手遅れではあるが、まだ今でも、わたしが正式にAと話し合いをつけさえすれば、事態を収拾することもできる、と灰めかしてくれた。わたしはそんなことはいやだったし、それに少しいらいらしてもいたので、傲然と拒絶した。それからすぐさま退官願いを出した、――これがいっさいの事情である。わたしは傲然としていたものの、しかし打ちひしがれた気持ちで連隊を出た。わたしは意気沮喪してしまった。ちょうどその時、折も折、モスクワにいた姉の夫が、わたしたちの小さな財産を蕩尽して、わたしの分け前も、――ほんのぽっちりではあったけれど、いっしょに費われてしまったので、わたしは一文なしで往来へほうり出されたわけである。わたしは民間の勤め口にありつくこともできたのだが、はねつけてしまった。光輝ある軍服をつけた後で、どこかの鉄道などへ行く気はしなかったからである。それで、恥ずかしい思いをするなら、うんと恥ずかしい目をしろ、屈辱なら屈辱けっこう、堕落するなら、徹底的に堕落しろ、悪けりゃ悪いほどいい、――こういったような態度を選んだのである。それから、暗い思い出の三年間、そのあいだには、ヴャーゼムスキイの家に泊まったことさえある。一年半前に、モスクワでわたしの教母にあたる金持ちの老婆が死んで、遺言状を開いて見ると、思いがけなく、ほかの人たちのお相伴で、わたしも三千ルーブリの金を残してもらっていた。わたしは一思案して、即座に自分の運命を決したのである。わたしは人にゆるしを乞わないで、質屋を始めることにきめた。まず金、それから小さな住居、そして、――以前の思い出から遠ざかった新生活、これがわたしの計画であった。にもかかわらず、暗い過去と、永久に傷つけられたわたしの名脊は、二六時中やむ時もなくわたしを悩ますのであった。が、そのときわたしは結婚した。偶然かどうか、――それは知らない。しかし、彼女をわが家へ迎え入れるにあたって、わたしは親友を得たと考えた。わたしにはあまりにも親友が必要だったのである。しかし、わたしはこの親友を養成し、仕上げをし、あまつさえ征服しなければならぬことを、明らかに見てとった。いったいこの十六になったばかりの先入見を持った娘に、いきなりだしぬけに何か説明してやることができたろうか?例えば、恐ろしいピストル事件の偶然な助けがなかったら、どうしてわたしは自分が臆病者でなく、連隊でわたしを臆病者と宣告したのは不正であったことを、彼女に信じさせることができよう?しかし、変事はちょうどいい時に来てくれた。ピストルの試練にたえたわたしは、自分の陰鯵な過去ぜんたいに復讐したのである。このことはだれも知らなかったが、彼女は知っていた。これはわたしにとってすべてであった、なぜなら、彼女はわたしにとってすべてであり、空想裡におけるわたしの未来の希望の全部であったから!彼女は、わたしが自分のために用意していた唯一の人であって、ほかの人間は入用がなかった、――その彼女がいっさいを知ったのだ。少なくとも、あまりあわててわたしの敵に加担しようと急いだのだが、正しくなかったことを知ったのである。この想念はわたしを有頂天にした。彼女の目にわたしはもはや卑劣漢ではなく、ただ風変わりな人間、というくらいなものであった。今ああいうことの起こったあとでは、こう考えるのも、わたしとしてあながちうれしくないことでもなかった。風変わりは悪徳でないどころか、時としては、かえって女性をひきつけるものである。手っとり早くいえば、わたしは故意に大団円を遠ざけたのである。あの出来事はさしあたり、わたしを安心させるのに十分すぎるくらいであり、わたしの空想にとって、あまりに多くの画面と材料を含んでいた。この、わたしが空想家だったということがいけなかったのだ。つまり、わたしには材料が十分だったので、彼女は待っていてくれるだろうと考えたのである。

こうして、一種の期待の情のうちに一冬過ぎた。わたしは、彼女が自分の小さいテーブルの前に腰かけているのを、そっとぬすみ見るのが好きであった。彼女は編物や肌着いじりなどをし、晩には時おり、わたしの書棚から本をとり出して読んでいた。その書物の選択も、わたしのために有利に転向していることを証明するものでなければならなかった。彼女はほとんどどこへも出て行かなかった。食後、たそがれ前に、わたしは毎日彼女を散歩に連れ出した。こうして、わたしたちは運動をしたが、以前のような、まったくのだんまりとはかぎらなかった。わたしは、二人は黙っているのではない、仲よく話し合っているのだ、といった様子をすることに努めてはいたものの、前にもいったとおり、わたしたちは二人とも、くだくだしいことはいわないようにしていたのである。わたしはことさらそうしたのだが、彼女にはぜひとも「余裕を与え」なければならぬものと考えていた。もちろん、奇妙なことながら、自分では彼女をぬすみ見るのが楽しいのだけれども、冬じゅう一度も、わたしにそそがれた彼女の視線を捉えることができなかったのに、そのことはほとんど冬の終わりまで、ついぞ頭に浮かばなかった!わたしはそれを彼女の内気からくることと思っていた。それに、病後の彼女は、いかにも臆病らしくおとなしい、弱々しい様子をしていたのである。いや、やはり時を待つにかぎる、そうすれば、「あれのほうから急にこっちへ近づいて来るだろう……」

この想念は否応なく、わたしを有頂天にさせた。つけ加えておくが、ときどきわたしはまるでわざとのように、われとわが心を燃え立たせて、実際、彼女が憎らしくなるまで、自分の魂と知性を緊張させたものである。しばらくこんな様子でつづいていった。しかし、わたしの憎悪はどうしてもわたしの心中に成熟し、根を固めることができなかった。それに、第一、わたし自身、こんなことは単なる遊戯でしかないように感じていたのだ。おまけにそのときわたしは、寝台や衝立てを買って婚姻を破棄したけれど、彼女が罪人であるとは、どうしても金輪際思えなかったのである。それも、彼女の犯行について、軽率な判断を下したからではなく、当日まだ寝台を買わぬ前から、もう彼女をゆるしていい根拠を、完全につかんでいたからである。一口にいえば、これはわたしとして奇怪なことである、なぜなら道徳的にはわたしは厳格な人間なのだから。ところが事実は反対で、わたしの目から見ると、彼女はあまりに打ち負かされ、あまりに卑しめられ、あまりに、圧しひしがれていたので、わたしは時として、悩ましいまでに、彼女に憐憫を感じるのであった。もっとも、それにもかかわらず、どうかすると、彼女が屈服してしまったと思うと、うれしくてたまらなくなることがあった。わたしたちが平等ではないという考えが気に入ったのである……

ふとしたことで、わたしはこの冬の間に、ことさら二、三の善行を施したものである。わたしは二つの債務をゆるし、一人の貧しい女にぜんぜん質草なしに金を与えた。そして、妻にもこのことをいわなかった。また第一、彼女に知ってもらいたさにしたことではないのだ。しかし、女自身が礼に来て、ひざまづかんばかりに感謝した。こうして、事はばれてしまった。わたしが見受けたところでは、この女のことを聞いた時、彼女も実際、満足を感じたらしかった。

けれど、やがて春が来て、早くも四月の半ばとなった。窓の二重枠は取りはずされ、太陽は明るい大幅の光線で、わたしたちの沈黙がちな部屋を照らすようになった。が、わたしのまえに幕が垂れて、わたしの知性を盲目にしていた。宿命的な恐ろしい幕!ところが、どうしてそんなことになったのか知らないが、その幕がとつぜんぱったり落ちて、わたしは急に目があき、いっさいを理解した。それは偶然だったのか、あるいはそうした時期が到来したのか、それとも、太陽の光線がわたしの鈍った知性の中に、思考と推察の火を点じてくれたのか?いや、そこには思考も推察もなかった。ふいに一つの血管が、死に瀕していた血管が、震えだして生き返り、鈍くなっていたわたしの魂と、わたしの悪魔的な慢心を照らし出したのである。その時は急に、席から飛びあがったようなあんばいであった。そうだ、それはまったく唐突に、不意打ちにやって来たのだ。それは日幕れまえ、食後の五時頃に起こったことである……

 

2 突如幕は落ちた

 

その前に一言しておく。まだひと月ばかり前に、わたしは彼女の異様なもの思いに気がついた、それはもはや沈黙ではなくてもの思いである。これも突如として気のついたことなのである。彼女はそのとき頭を縫物のほうへかしげて、仕事をしており、わたしが彼女を見ているのを知らずにいた。そのおりふいにわたしがはっと思ったのは、彼女がひどくやせ細って、顔は青ざめ、唇まで白々としていることであった、――これがもの思わしげな様子と一つになって、寝耳に水の極度な驚きを呼び起こしたのである。わたしはもうその前にも、小さな乾いた咳を聞いたことがあった。夜中には、とくに耳についた。わたしはいきなり席を立って、彼女にはなにもいわないで、シュレーデルに往診を頼みに行った。

シュレーデルは翌日やって来た。彼女はひどく驚いて、シュレーデルとわたしの顔を見くらべていた。

「だって、あたしなんでもないんですのよ」と彼女は暖昧な薄笑いをしていった。

シュレーデルはろくすっぽ、彼女を見もしなかった(こういう医者はどうかすると、えらそうにぞんざいなやり方をするものである)。ただ別室でわたしに向かって、これは病後の名ごりだから、春になったら、どこか海岸へでも転地したらよかろうが、それができなければ、ただの別荘へでも移ったら、といっただけである。一口にいえば、体がよわっているか、それともなにか事情があるのだという以外には、何もいわなかったのである。シュレーデルが出て行くと、彼女はとつぜんもう一度、恐ろしくまじめな目つきで、わたしの顔を見ながらいった。

「あたし、どっこも、どっこも悪かありませんのよ」

しかし、いってしまってから、急にあかい顔をした、どうやら恥ずかしくなったらしい。見たところ、たしかにそれは羞恥であった。ああ、今こそわかる、――彼女はわたしがまだ彼女の夫であって、相変わらず彼女のことをさもほんとうの夫らしく心配しているのが、恥ずかしかったのである。しかし、その時、わたしはそれがわからなかったので、あかくなったのを従順のせいにしてしまった(これが幕なのだ!)。

それから、ひと月ばかりたった四月の、太陽の明るいある日の午後四時すぎ、わたしは帳場にすわって計算をしていた。ふと聞くと、彼女はわたしたちの居間で、自分の小机に向かって仕事をしながら、低い低い声で……歌をうたいだした。この珍しい出来事は、わたしの心に震撼的な印象を与えた。わたしはいまだにその印象がよくわからないのである。それまで、わたしはほとんど一度も、彼女の歌うところを聞いたことがなかった。ただ、彼女を家へ迎え入れたごく初めの頃、まだピストルで的を射ったりして、ふざけることのできた時分は別で、その当時は彼女の声も、正確ではなかったが、まだ、かなり力強く、朗らかで、きわめて愉快な、健康らしい声であった。ところが、今は歌声は妙に弱々しく、――うら悲しいというわけではないが(それは何か小唄だった)、声に何やらひびの入った、破れたようなところがあって、まるで声の調子がとれず、歌そのものまで病気しているようであった。彼女は小声で歌っていたが、急に節が高くなったかと思うと、ぷつりと切れてしまった、――なんというかわいそうな声へなんというみじめなと切れ方。彼女は軽く咳払いをして、ふたたび静かに静かに、聞こえるか聞こえないかの声で歌いだした……

人はわたしの興奮を笑うだろうが、どうしてわたしが興奮したかは、決してだれもわかる人はあるまい!いや、わたしはまだそのとき彼女がかわいそうなのではなかった。それはなにかしらまるで別なものであった。初め、少なくとも最初の数分間、突如として疑惑の念と恐ろしい驚樗が現われたのである。それは恐ろしい、奇妙な、病的な、ほとんど復讐的ともいうべき篭きであった。『歌をうたっている、しかもおれのいる前で!あれはおれのことを忘れたんだろうか、いったい?』

魂の底まで揺り動かされて、わたしはその場にたたずんでいたが、やがて急に立ちあがると、帽子を取って、なんの考えもなく部屋を出た。少なくともどこへ、なにしに行くのか知らなかった。ルケリヤが外套を渡してくれた。

「あれはうたうのか?」とわたしはついルケリヤにいってしまった。相手は合点がゆかなかった、そして、合点のゆかないままに、わたしを見つめていた。もっとも、わたしはまさにえたいの知れない人間ではあった。

「あれがうたうのはこれが初めてかね」

「いいえ、あなたのお留守には時々おうたいなさいます」とルケリヤは答えた。

わたしはなにもかも覚えている。わたしは階段をおりて、通りへ出ると、足にまかせて、どこともなく歩きだした。街角まで行って、どこやらぼんやり眺めはじめた。そこは人がしきりに往き来して、人を押したり突いたりするのであったが、わたしはそれを感じなかった。わたしは辻馬車を呼んで、なんのためとも知らず、ポリツェイスキイ橋まで行かせようとした。が、それも急にやめて、馬車屋に二十コペイカ玉を一つやった。

「これは無駄に足を止めさした罰金だ」と、わたしは意味もなく笑いかけながらいったが、心の中にはふいに一種の歓喜が湧きあがってきた。

わたしは歩みを早めてわが家へ引っ返した。ひびの入ったような貧弱な内部の歌が、ふとまたもやわたしの心中に響きだした。わたしは息がつまりそうであった。落ちた、例の幕が目から落ちたのだ!わたしのいるところでうたいだしたというのは、つまり、わたしのことを忘れたからだ、――これは明瞭である。そして、これは恐ろしいことだった。わたしの魂はそれを感じた。しかし、歓喜は心の中に卸いて、恐怖を圧倒したのである。

おお、運命の皮肉!なにぶんこの一冬じゅう、わたしの心にはこの歓喜以外なにもなかったし、またあり得なかったのだが、しかしわたし自身はこの冬じゅうどこにいたのか?わたしははたして自分の心のそばに張り番していたろうか?わたしは大急ぎで階段を駆けあがった。おずおず入って行ったかどうか、それは知らない。ただ床ぜんたいが、さながら波打って、わたし自身はまるで河を泳ぐようにして入ったこと、それを覚えているだけである。わたしが部屋へ入って行くと、彼女はもとの場所にすわったまま、うなだれて裁縫をしていたが、もううたってはいなかった。ちらとなんの好奇心もなくわたしのほうを見たが、それはまなざしとはいえない、ただ人が部屋に入って来る時に見せる、いつもの無関心なしぐさにすぎなかった。

わたしはいきなりそのほうへ歩み寄って、気でも狂った人のように、ぴったりとそのそばの椅子に腰をおろした。彼女はぎょっとしたように、素早くわたしの顔を見た。わたしは彼女の手をとったが、何をいったか、いや、何をいおうとしたか覚えがない。なぜなら、正しく言葉を発することすらできなかったからである。わたしの声はと切れがちで、思うままにならなかった。それに、わたしはいうべき言葉も知らず、はあはあ息を切らしているばかりであった。

「さあ、話そう……ねえ……何かいっておくれ!」とわたしはだしぬけに、なにやらばかげたことを、呂律も怪しくいいだした、――なに、ばかだの利口だのといっているどころの騒ぎか?彼女はもう一度ぴくりと身ぶるいして、わたしの顔を見つめながら、烈しい驚愕におそわれたようで、一歩あとずさりした。とふいに――厳しい驚きが彼女の目に現われた。そうだ、驚きである、しかも厳しい驚きである。彼女は大きな目でわたしを見つめていた。この厳しさ、この厳しい驚きは、一挙にわたしを粉砕したのである。「では、お前はまだ愛がいるのか?愛が?」女は口をつぐんではいたものの、この驚きの中に、突如こういう質問が聞こえたようであった。わたしはすべてを読みとった。すべてなにもかも。わたしの内部ではいっさいのものが震憾し、わたしはそのまま彼女の足もとへ崩れ落ちた。そうだ、わたしは彼女の足もとへくずおれたのだ、彼女は早くもおどりあがったが、わたしは異常な力で彼女の両手を抑えた。

わたしも自分の絶望の深さを十二分に理解した。まさに理解していたのだ!しかし、正直なところ、歓喜はわたしの胸の中でたえがたいまでに沸きかえって、そのまま死ぬのではないかと思ったほどである。わたしは陶酔と幸福にひたりながら、彼女の足を接吻した。そうだ、測りがたいはてしない幸福にひたっていたのだ。しかも、それは自分の救いのない絶望を残りなく理解したうえでの話である!わたしは泣き、何やらいったが、口がきけなかった。驚愕と恐怖の念は、とっぜん彼女の心中で一種不安な想念と入れ代わり、なみなみならぬ疑問と一変した。彼女は不思議な、むしろけうとい目つきでわたしを見つめ、なにやら一時も早く理解しようとして、にやっと笑った。わたしに足を接吻されるのがひどく恥ずかしかったので、彼女はそれを引っ込めたが、わたしはすぐ彼女の足ののっていた床の上を接吻した。彼女はそれを見ると、急に羞恥のあまり笑いだした(人が羞恥のあまり笑うということは、よくあるものだ)。ヒステリーが起こったのである。わたしはそれを認めた。彼女の両手はわなわなふるえていた。が、わたしはそのことは考えもせず、たえずしどろもどろにつぶやきつづけるのであった、――自分は彼女を愛している、自分はこの場から立ちあがりはしない。

「お前の着物を接吻させてくれ……こうして一生お前に向かって祈らせてくれ……」それから何をいったか、わたしは知らない、覚えがない、――ただふいに彼女はしゃくりあげて泣きだし、がたがたと身ぶるいをはじめた。恐ろしいヒステリーの発作がおそってきた。わたしは彼女をびっくりさせたのである。

わたしは彼女を寝床へ移した。発作が過ぎると、彼女は寝床の上にすわって、なんともいえないたたきのめされたような様子で、わたしの両手をつかみ、わたしに気をおちつけてくれと頼むのであった。「もうたくさんですわ、ご自分を苦しめないでちょうだい、心をおちつけてちょうだい!」こういって、またもや泣きだした。この晩ずっと、わたしは彼女のそばを離れなかった。わたしはのべつ彼女に向かって、今すぐ、二週間もしたら、ブーローニュヘ海水浴につれて行く、お前はなんだかひびの入ったような声をしているが、自分はさっきそれを聞いた、この店はたたんで、ドブロヌラーヴォフに売ってしまう、なにもかも新しく始めるんだ、などと話しつづけたが、一番おもなことは、ブーローニュ、ブーローニュヘ行くことであった!彼女はそれを聞きながら、たえず恐れていた。その恐れは刻々に強くなっていった。しかし、わたしにとって大切なことはそれではなく、もういちど彼女の足もとに身を投げて、もういちど彼女の立っている床に接吻したい、接吻したい、彼女に祈りたいという欲望が、ますます抑えがたい力をもって募ってくることであった。

「これ以上、わたしはもうお前になんにも、なんにも頼みやしない」とわたしは一分ごとにくり返した。「わたしにはなんにも答えないでいい、わたしなんか目にもとめなくったってかまやしない。ただ隅のほうから、そっとお前を見ることだけ許しておくれ。おれのことなぞは、なにか自分の持ち物のように、小犬のように扱ってくれたらいいんだ」……彼女は泣いていた。

「あたしはまた、あなたがあたしをこのままにしておいてくださるものとばかり思ってましたわ」ふいにこういう言葉が無意識に彼女の口からもれた。――これは彼女自身すらも、どんなふうにいったか、まるで気づかなかったかもしれないほど、なんの意識もなく発せられた言葉であるが、にもかかわらず、――ああ、それこそ最も重要な、最も運命的な言葉であり、その晩もっとも明瞭にわたしに理解された彼女の言葉であって、わたしはそのために、まるで心臓をナイフでぐさっと決られたような気がした!この言葉はわたしにいっさいを説明した、いっさいなにもかも。しかし、彼女がそばにおり、わたしの目の前に見えている間は、わたしはがむしゃらに希望をつないで、めちゃめちゃに幸福であった。いうまでもなく、わたしはその晩、おそろしく彼女を疲らせた。わたしもそれは知っていたけれど、今にすぐなにもかもを一変してしまうのだ、とたえず心に考えていた。ついに夜中ちかくなって、彼女はすっかり気力が衰えはてた。わたしは眠るようにと勧めた。彼女はたちまちぐっすり寝入ってしまつた。わたしは譫言(うわごと)がはじまるものと覚悟していた。譫言(うわごと)ははじまったが、きわめて軽いものであった。その夜、わたしはほとんど一分ごとに起きて、上靴ばきでそっと彼女を見に行った。あの時、三ルーブリで買ってやったあの貧弱な寝台、鉄の寝台に横たわっているこの病的な存在を眺めながら、わたしはその枕もとで、われとわが手を折れよとばかり揉み抜いた。わたしは脆いたが、眠っている彼女の足に(彼女の意志を待たず!)接吻することはあえてしなかった。わたしは脆いて神に祈りはじめたが、またしても飛びあがるのであった。ルケリヤはわたしの様子に目をつけて、のべつ台所から出て来た。わたしは自分から彼女のほうへ行って、もう床についてくれ、明日は「まるっきり別のこと」が始まるのだから、といった。

またわたしもそれを盲目的に、もの狂おしいまでに、烈しく信じきっていた。おお、歓害、歓喜がわたしを溺らしたのである。わたしはひたすら明日の日を待っていた。何よりいけないのは、二、三の徴候があったにもかかわらず、わたしがいかなる不幸をも信じなかったことである。幕は落ちたにもかかわらず、理解力はまだぜんぶ恢復していなかったのである、その後も長く、恢復しなかったのである、――おお、今日まで、つい今日の日まで!第一、どうして、どうしてそのとき理解力の恢復のしょうがあったろう。なにしろ、その時は彼女はまだ生きていたのだもの、彼女はわたしの目の前におり、わたしは彼女の前にいたのだもの。「あす彼女が起きたら、これをすっかり話してやろう。すると、彼女もすっかり合点してくれるだろう」これがその時のわたしの考え方であった。簡単明瞭、だからこそ有頂天だったのである!そこでかんじんなのはブーローニュ行きである。なぜかわたしはひっきりなしに、ブーローニュにこそいっさいがある、ブーローニュにこそ何か終局的なものが含まれている、と考えていたのである。「ブーローニュヘ、ブーローニュヘ」……わたしはもの狂わしい気持ちで、朝の来るのを待っていた。

 

3 あまりにわかる

 

これはなにしろ、つい数日前、五日前のことである。わずかに五日前、先週の火曜日のことなのだ!いや、いや、彼女がもうちょっとの間、ほんのちょっぴり待ってくれたら、――二人の間を閉していた闇を払いのけたものを――しかし、いったい彼女は安心していたのでなかったろうか?翌日は、多少まごついた様子は見えていたものの、もう笑顔でわたしのいうことを聞いていた……要するに、この間じゅう、つまり、この五日間というもの、彼女にはまごついた様子というか、あるいは羞恥の色というか、が見えていたのである。同時に恐れてもいた、非常に恐れていたくらいである。わたしは争わない、狂人のように自己撞着もしまい。恐怖はたしかにあったが、なにしろ、彼女に恐れるなというほうが、じたい無理なのである。わたしたちはもう久しく、互いに他人みたいになりすまし、すっかり離れてしまっていたところへ、ふいにああいった事情が現われたのだから……しかし、わたしは彼女の恐怖には気をとめなかった、それほど新しいものが燦然と輝いていたのである!……もっとも、わたしが過ちを犯したことは事実である。疑いもなき真実である。それどころか、数々の過ちさえもあったろう。すでにわたしは翌日目をさますと、いきなり朝っぱらから(それは水曜日であった)、さっそく過ちをしでかしてしまった。ほかでもない、わたしは急に彼女を自分の親友にしてしまったのである。わたしはあまりに、あまりに急ぎすぎた。しかし、それでも後悔は必要であった、欠くべからざるものであった、――いやいや、そんな生やさしいものではない、それは後悔以上のものだった!わたしは生涯、自分自身に隠していたことすら隠さなかった。わたしは、冬じゅうひたむきに彼女の愛を信じていたことを、率直に語った。また質店はわたしの意志と知性の堕落にすぎず、自撻と自讃の個人的観念にすぎなかったことを、彼女に説明した。わたしはさらに、次のようなことを説いて聞かせた。あの時、わたしは芝居の食堂で実際おじけづいたのだ。自分の性格から、猜疑心から隠したのだ。というのは、周囲の様子に圧迫され、食堂に圧迫されたのである。いったい自分はどんなふうに見えるだろう、ばかげたものになりはしないだろうか、という考えに圧倒されたのである。要するに、決闘そのものではなく、ばかげたことになるのを恐れたのであった……ところが、その後では、それを自白するのがいやさに、みんなを苦しめ、またそのために彼女を苦しめた。彼女と結婚したのも、その腹いせに彼女を苦しめようがためだったのである。総じて、わたしはこの告白の大部分を、熱病にでもかかったような調子で語った。彼女のほうはどうかというと、わたしの両手をとって、もうやめてくれと頼んだ。「あなたは誇張していらっしゃるんですわ……あなたは自分で自分を苦しめていらっしゃるのよ」そういって、またもやさめざめと泣きだして、危うくふたたび発作を起こしそうになった!彼女はそれからもひっきりなしに、どうかそんなことは何もいわないように、思い出さないように、と哀願するのであった。

わたしは彼女の哀願を気にとめなかった。もしくはあまり深く気にとめなかった。なにしろ春である。ブーローニュ行きである!そこには太陽がある。新しいわれわれの太陽がある、わたしはただその話ばかりしていたのだ!わたしは店を閉めて、営業をドブロヌラーヴォフに譲ってしまった。わたしはとつぜん彼女に向かって、教母からもらい受けた元金三千ルーブリを、ブーローニュ行きの旅費にあてて、それ以外はことごとく貧しい人たちに分け与え、その後、帰って来たら、新しい勤労の生活を始めよう、と申し出た。そして、わたしたちはそうすることにきめた。なぜなら、彼女はなんにもいわなかったからである……彼女はただにっこりほほ笑んだだけである。見受けたところ、彼女はどちらかというと、わたしを落胆させまいという優しい心づかいから笑ったものらしい。わたしは、自分というものが彼女にとって、重荷になっていることを見てとった。どうか、わたしがそれに気もつかないほど、愚かなエゴイストだとは思わないでもらいたい。わたしはすべてを看取していた、最後の一点一画まで看取して、だれよりもよく承知していた。わたしの絶望は挙げてことごとく、目の前にさらされていたのである!わたしは彼女に、自分のことや彼女のことや、いっさいなにもかも語って聞かせた。ルケリヤのことを話した。わたしは自分の泣いたことをも話した……おお、わたしとても幾度となく話題を変えたものである。あの種の事柄は、金輪際ロに出すまいと努めもした。また彼女も一、二度は元気づいたように見えた。わたしはそれを覚えている、よく覚えていろ!なぜ諸君は、お前は見ていながらなに一つ認めなかつた、などというのか?もしあのことさえ起こらなかったら、すべては復活したに相違ないのだ。現に彼女は、まだつい一昨日のこと、話題が読書のことにおよんで、彼女がこの冬読んだもののことにふれた時、グラナダ大司教とジル・プラースのあの場面(フランスの作家ル・サージュの小説『ジル・プラース』より)を思い出して、いろいろとわたしに話をして聞かせ、笑ったではないか。しかも、なんという子供らしい、まるで婚約時分のようにかわいらしい笑いであったか(瞬間、ほんの瞬間!)わたしはどんなにかうれしかったものである!とはいえ、この大司教の話はわたしをいたく驚かした。してみると、彼女は冬籠(ごも)りをしていた間に、こういう傑作に笑い興じることができるほど、精神の安静と幸福を見いだしたわけである。してみると、彼女はもうまったく安心して、わたしが彼女をこのままにしておくものと信じはじめたわけである。「あたしはまた、あなたがあたしをこのままにしておいてくださるものと思っていましたわ」――現に彼女はあの時、火噸日に、こういったではないか!おお、十歳の少女みたいな考えである!そして、ほんとうにどこまでも、すべてがこのままでいるものと信じていたのだ、――彼女は自分のテーブルに向かい、わたしはわたしのテーブルに向かって、そのままで二人は六十までも生きていくもの、と信じていたのである。ところが、とっぜん、――わたしが夫として近づいていく、そして夫には愛が必要である!おお、誤解、おお、わたしの盲目さ加減!

わたしが歓喜をもって彼女をながめたのも、やはり誤りであった。じっと、我慢していなければならなかったのだ。ところが、歓喜が彼女を驚かしたのだ。しかし、その後はわたしも我慢して、もはや彼女の足に接吻などしなかった。わたしは一度も……なんというか、まあ、自分が夫であるといったような顔を見せなかった、――まったく、そんなことはわたしも夢にも考えていなかった、――わたしはただ祈ったのである!しかし、まんざらむっつりと黙り込んでいるわけにもゆかない、ぜんぜん口をきかずにもいられまいではないか!わたしはだしぬけに彼女に向かって、わたしは彼女の話を享楽しているので、彼女を自分よりずっと、ずっと、比較にならぬほど教養のある、知情の発達した人間だと思っている、とこう明言した。彼女は真っ赤になって、はにかみながら、あなたは誇張していらっしゃるといった。そのときわたしはついうかつに、我慢しきれなくなって、あのとき扉の外で彼女の決闘、――あの畜生を相手の純潔の決闘を立ち聞きしながら、どんなに歓喜を覚えたか、彼女の子供のように単純な心に現われる知恵と機知の閃きとに、いかなる悦びを感じたか、などというようなことを話してしまった。彼女は全身をぴくりとふるわし、またしても、あなたは誇張していらっしゃる、とおぼつかない調子でいったが、急にその顔が一面にさっと曇って、両手で顔をおおったと思うと、しゃくり泣きに泣きだした……その時もうわたしも自分を抑えかねて、またもや彼女の前にどうと身を投げ、またもやその足に接吻しはじめた。そして、またしてもとどのつまり、火曜日同様の発作におわった。これは昨晩のことであった、ところが、朝になると……

朝になると?!気ちがい、この朝は、今日のことではないか、まださっき、ついさっきのことではないか!

よく聞いて、思いをいたしてもらいたい。さきほど(これは昨日の発作の後のことである)、わたしたちがサモワールのそばでいっしょになった時、彼女はむしろその平静さでわたしを驚かしたくらいである。なんと、こういう次第だったのだ!ところで、わたしのほうは、昨日のことを思って、一晩じゅう戦々恐々としていた。さて、とっぜん、彼女はわたしのそばへ来て、わたしの前に立ちどまり、手を合わせて、(ついさっき、ついさっきのことなのだ!)こんなことをいいだした。――あたしは罪人で自分でもそれを承知しています、その罪が冬じゅうあたしを苦しめたのみか、今もやはり苦しめています…・・・あなたの度批の広いお心は、身にあまってありがたいことに思っています……「あたし、あなたの忠実な妻になって、あなたを尊敬しますわ」……わたしはおどりあがって、気ちがいのように彼女を抱きしめた|わたしは彼女を接吻した、長い別れの後に初めて、夫として彼女の顔や唇に接吻した。ただわたしはなんだってさっき出かけたのだろう、たった二時間ばかりのことではあったけれど……わたしたちの外国旅券を取りに行ったのだ……なんということだ!ほんの五分間、五分間はやく帰ってさえ来たら?……帰って見ると、アパートの門に群がっているあの群集、わたしを見るあの目つき……おお、なんということだ!

ルケリヤがいうには(おお、わたしは今後どんなことがあってもルケリヤを離さない。彼女はなにもかも知っている、彼女は冬じゅう家にいたのだから、彼女はすべてをわたしに話してくれるだろう)、その彼女がいうには、わたしが家を出てから帰って来るまで、ほんの二十分かそこいら前に、――ルケリヤは急に、なんであったかよく覚えてないが、たずねることがあって、居間にいた奥さんのところへ入って行った。見ると、彼女の聖像(例の聖母像)が取りはずされて、彼女の前のテーブルの上に置かれている。奥さんは、今までそれにお祈りでもしていたようなふうである。「奥さん、どうなさいました?」「どうもしやしないわ、ルケリヤ、あっちへ行って。――ちょっとお待ち、ルケリヤ」と彼女はそういって、ルケリヤのそばへ来て接吻した。「奥さん、あなたお仕合わせでいらっしゃいますか?」というと、「ああ、仕合わせだよ、ルケリヤ」「ねえ、奥さん、ほんとうのことを申しますと、旦那様はもうとっくにあなたにお詫びなさらなければならなかったのですわね……でも、仲直りがおできになってようございましたこと」「もういいわ、ルケリヤ、あっちへ行って、ルケリヤ」とにっこりして見せたが、それはいかにも変な笑い方であった。あまり変だったので、十分ばかりして、ルケリヤはまたふいと彼女を見に行く気になった。『奥さんは壁の際に、窓のすぐそばに立って、片手を壁にあてがい、その手に頭を押しつけて、こんなふうに立って、考えていらっしゃるんですの、わたしがこちらの部屋に立って見ているのにも、気がつかなかったほど、じっと考え込んで立っていらっしゃるのです。見てると、どうやら奥さんはにこにこ笑っていらっしゃるらしい。じっと立って考えながら、笑ってらっしやる。しばらくそうして見ていてから、わたしはそっと引っ返して、出て行きました。腹の中では、いろいろ何かと考えていたのでございます。すると、急に窓のあく音が聞こえました。わたしはすぐまたそちらへ行って、「奥さん、寒いからお風邪を召すといけませんよ」と申しあげようと思って、ふと見ると、奥さんは窓の上にあがっていらっしゃるではありませんか、もうすっかり背丈いっぱいに身を伸ばし、開け放した窓の上に立って、わたしのほうへうしろを向けていらっしゃいます、手には聖像をお抱きになって。わたしは思わずどきっとして、「奥さん、奥さん!」と金切り声を立てました。奥さんはそれを聞くと、わたしのほうへふり返ろうとして、少し身動きなさいましたが、結局ふり返らずに、ひと足まえへ踏み出しなさいました、聖像を胸に抱きしめたまま、――そして、窓から身を投げておしまいなすったのです』

わたしが門へ入った時には、彼女はまだ温かだった、わたしはただそれだけを記憶している。何よりはっと思ったのは、みんながわたしを見ていたことである。はじめがやがや騒いでいたものが、そのとき急に黙ってしまって、わたしの前に道を開いた。と……そこには聖像を抱いた彼女が横たわっていたのである。わたしは無言でそのそばへ寄り、長いこと見つめていたのを、闇を透すようにぼんやり覚えている。みんなは人垣をつくって、わたしに何やらいっている。ルケリヤもそこにいたのだが、わたしは気がつかなかった。当人の話では、わたしに口をきいたとのことである。わたしが覚えているのは、一人の町人だけである。この男はのべつわたしに向かって、「血が一つちょぼ口から出たよ、一つちょぼ、一つちょぼ!」と叫んでは、そこいらの石についていた血をさすのであった。わたしはどうやらその血に指で触ったらしい。指を汚したので、その指を見ていると(これは覚えがある)、その男はのべつ「一つちょぼ、一つちよぼ!」といっていた。

「いったいその一つちょぼって、なんのことだ?」わたしはありったけの声を出してこうわめくと、両手を振りあげて、その男に飛びかかったということである……

ああ、むちゃだ!むちゃだ!誤解だ!真実とは思えない!不可能なことだ!

 

4 わずか五分の遅刻

 

いったいわたしのいい分が違っていたのだろうか?はたしてこれが真実らしいだろうか?はたしてこれをあり得ることといえるだろうか?なんのために、何がゆえにこの女は死んだのか?

おお、信じてもらいたい、わたしは理解している。けれど、彼女はなんのために死んだのか、――これはやはり疑問だ。彼女はわたしの愛におびえたのだ。そして、まじめに、これを受けたものか受けないものかと自問してみたうえ、この疑問をささえきることができないで、死を選んだのだ。わかっている、わかっている、なにも頭をひねることはない。彼女はあまりに多くの約束を与えたので、それを守ることは不可能だと悟って、愕然としたのだ、’ことは明々白々である。そこにはまったく恐ろしいそこばくの事情があるのだ。なぜなら、そもそもなんのために彼女は死んだのか?この点が依然、疑問として残っているからである。疑問はどきんどきんと音を立てている、わたしの脳壁をたたいている。わたしはむろん、彼女がそのままであることを望むのだったら、そのままにしておいたろう。ところが、彼女はそれを信じなかった、それがいけないのだ!いや、いや、わたしはでたらめをいっている、そんなことはまるで違う。ほかでもない、わたしに対しては正直でなければならないからだ、愛する以上は全的に愛さなければならぬので、あの商人を愛するような愛し方ではいけないからである。彼女は、商人に必要な程度の愛に応ずるには、あまりに純潔で、あまりに無垢であったから、わたしをだます気になれなかったのである。愛の仮面をかぶった中途半端な愛や、四分の一の愛で欺くのをいさぎよしとしなかったのである。あまりにも正直であった、これが原因なのだ!記憶しておられるかどうかしらないが、わたしはあのとき心の寛さを接木(つぎき)しようと企てたものだ。なんと奇妙な考えだろう。

ここで大いに興味のある問題は、彼女がわたしを尊敬していたかどうかということである。わたしとしては、彼女がわたしを軽蔑していたかどうかしらない。が、軽蔑していたとは思えない。それにしても、彼女がわたしを軽蔑しているかもしれぬという考えが、どうして冬の間に一度もわたしの頭に浮かばなかったか、それが不思議でたまらない。わたしは、あのとき彼女が厳しい驚きの色を浮かべてわたしを見たその瞬間まで、まったく反対のことを確信していたのである。まったく厳しい驚きであった。そのときわたしはたちまち即座に、彼女がわたしを軽蔑していることを悟った。それこそ永久に取り返しのつかない気持ち!ああ、いくらでも、いくらでも、一生涯でも軽蔑していてくれたらいいのだ、生きてさえいてくれたら、生きてさえいてくれたら!まだついさきほどまで歩いたり、ものをいったりしていたのに。どうして窓からなど身を投げたのか、わたしにはとんと合点がゆかない!せめて五分前にでも、なんとかして予想することができたら?わたしはルケリヤを呼んだ。今はもうどんなことがあってもルケリヤは離さない、どんなことがあっても!

おお、わたしたちはまだ話し合うこともできたはずなのだ。わたしたちはただ冬の間に、ひどく離ればなれの気分になっていたが、しかしもう一度うち解けることが、はたして不可能であったろうか?なぜ、なぜわたしたちは意気投合して、もういちど新しい生活を始めることができなかったのか?わたしは寛大だし、彼女も同様である、――すると、ここに結合点が存在するわけだ!もう数言の説明と二日の日数、――それ以上は不要だ。そうすれば、彼女はもうすべてを理解したのだ。

何よりもいまいましいのは、すべてが偶然だということである、――単純な、野蛮な、蒙昧な偶然だということである。これが頬にさわる!五分、たった五分だけ遅れたのである!わたしが五分早く帰っていたら、――あの一瞬間は浮雲のように過ぎ去って、そんな考えは決して二度と、彼女の頭に浮かばなかったであろう。そして、結局、いっさいを理解してくれたに相違ないのだ。ところが、今はふたたび空虚な部屋部屋と、孤独なわたし。向こうで時計の振子がちくたく鳴っている。やつにはなんのかけかまいもないのだ、なに一つかわいそうではないのだ。だれもいない、――これがやりきれないのだ!

わたしは歩いている、のべつ歩きまわっている。わかっている、わかっている、そばから口を出さないでもらいたい。わたしが偶然を怨み、五分を訴えているのが、諸君にはおかしいのであろう?しかし、そこには一つ自明の事柄がある。まず次の一事を考えていただきたい。彼女は、ふつう死んでいく人が遺すように、「わが死について何人も咎めたもうな」という書置きすら遺しておかなかった。いったい彼女は、ルケリヤまでが「なにしろ二人きりしかいなかったのだから、お前が突き落としたんではないか」というかどで、迷惑を受けるかもしれぬという判断がつかなかったのだろうか。もしも四人の人間が離れの窓と中庭から、彼女が両手に聖像を抱いて立っていたと思うと、やがて自分で飛びおりたところを見ていなかったら、少なくとも、ルケリヤは罪なくしてあちこち引っぱりまわされたかもしれないのである。しかし、人が立って見ていたというのも、これまた偶然ではないか。いや、これはみな瞬間である。単なる非情無識の瞬間にすぎない。唐突と幻想!彼女が聖像の前に祈ったからとて、それがそもそもなんだろう?それは死の前の祈りという意味にはならない。おそらくその瞬間は、わずか十分ぐらいつづいたにすぎまい。そして、いっさいの決心はほかならぬ彼女が壁際に立って、頭を片手にもたせ、ほほ笑んでいた時に成り立ったに相違ない。頭へ一つの想念が飛び込むと、ぐらぐらっと目まいがして、――もうそれに抵抗することができなかったのだ。

そこにはなんといわれても、明瞭な誤解がある。わたしとはまだいっしょに暮らしてゆけたはずなのだ。が、もし貧血の結果としたらどうだろう?単に貧血のためであったら、生活力の消耗からきたのであったら?彼女は冬の間に疲れたのだ、それなのだ……

遅かった!

枢の中の彼女は、なんとほっそりしていることか、あの鼻のなんと尖ったことか、睫毛は小さな矢のように並んでいる。いったいどんな具合に落ちたものだろう、――どこ一つ砕けても折れてもいない!ただあの「一つちょぼの血」だけだ。つまり、デザート・スプーン一杯の量である。脳震盪なのだ。奇怪な考えだが、もし葬らずにすんだらどうだろう、なぜなら、もし彼女が担いで行かれたら、それこそ……ああ、だめだ、担いで行かれるなんてことは、ほとんど不可能だ!なに、それはわたしだって、彼女が担いで行かれねばならぬことは知っている。わたしは気ちがいでもなければ、決して諭言(うわごと)をいっているのでもない。それどころか、こんなに知性が輝いたことはかつてないくらいだ、――しかし、また家にだれもいなくなるのに、いったいどうしろというのだ、またしても二つの部屋、そしてまたしても、わたし一人が質物に囲まれて。讒言、讒言、讒言といえば、つまりこのことなのだ!わたしは彼女を苦しめたのだ、それなのだ!

今のわたしにとって諸君の法律がなんだ?諸君の習世、諸君の風俗、諸君の生活、諸君の国家、諸君の信仰が何するものぞ?諸君の裁判官をしてわたしを裁かしめよ。わたしをして法廷に、諸君のご自慢の公開法廷に立たしめよ。そうすればわたしは、おれはなにものをも認めないといってやる。裁判官は叫ぶだろう、「黙りなさい、将校!」と。しかしわたしは叫び返してやる、「いま貴様のどこに、おれを従わせるだけの力があるのだ?何がゆえに暗洲たる蒙昧が、この世の何より高価なものを打ち砕いたのか?貴様らの法律が今のわたしに何になるか?おれは貴様らから絶縁するのだ」おお、わたしはもうどうだってかまわない!

盲目、盲目の女!死骸になった女、なんにも聞こえないのだ――わたしがお前をどんな天国に住ませようとしていたか、お前は知らないのだ。天国はわたしの心のうちにあったのだ、わたしはそれでお前のまわりを取り囲んだはずなのだ!なに、よしんばお前がわたしを愛さなかったとしても、――それでかまわない、なに、たいしたことではない!いつまでもそのままでよかったのだ、いつまでもそのままそっとしておいたはずなのだ。ただ友だちとしてわたしに話をしてくれたら、――それで二人は喜んだだろう、うれしそうに目をみかわして、わらっただろう。そんなふうにしてくらしたにちがいないのだ。が、もしほかの男が好きになったら、――なあに、かまわない、愛するがいい、愛するがいいのだ!お前がその男といっしょに歩いて笑っているところを、わたしは通りのこちら側から見ているだろう……おお、どんなことでもかまわない、ただせめて一度でも目をあけてくれたら、一瞬間、ほんの一瞬間だけでいい!さっきわたしの前に立って、これからあなたの忠実な姿になると誓った時のように、わたしの顔を見てくれたら!おお、その時は一目でいっさいを理解してくれたろうものを!

ああ、蒙昧!おお、自然!地上の人間は孤独なのだ、――これが不幸なのだ!「この野に生きた人間がいるだろうか」と古いロシヤの勇士は叫ぶ。勇士ではないが、わたしも叫ぶ。しかし、だれも応えるものがない。太陽は宇宙に生気を与えるという。太陽が昇ったら、――その太陽を見るがいい、はたして死んでいないだろうか?なにもかも死んでいる、到るところ死人だらけだ。ただ生きているのは人間ばかり、その周囲は沈黙が領している、――これが地上の有様なのだ!「人々よ、互いに愛し合うべし」これをいったのはだれだ?これはぜんたいだれの遺訓だ?時計の振子はちくたくと無感覚な、いまわしい音を立てている。夜中の二時だ。彼女の小さな靴が、まるで主人を待つもののように、寝台のそばに並んでいる……いや、真剣の話、あす彼女が担いで行かれたら、わたしはいったいどうしたらいいのだ?

 

作家の日記 1876年11月号 (米川正夫訳)

 

 

フョードル・ドストエフスキー「全集14 作家の日記 上」(河出書房)

昭和45年6月20日 初版発行

昭和50年7月15日 9版発行