odd_hatchの読書ノート

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チェルヌイシェフスキー「何をなすべきか 下」(岩波文庫)-1 男女同権には女性が男の束縛から解放されること、経済的自立と教育が不可欠。

2020/01/28 チェルヌイシェフスキー「何をなすべきか 上」(岩波文庫) 1863年
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 長かった。ほとんどはヴェーラの恋愛と家庭生活について。いれかわりたちかわりにヴェーラの前に男が現れる。ヴェーラは気をひかれたり、幻滅したり。結婚して愛想をつかし、別の男と結婚し。長じてからは若い娘の指南役になり、家族や夫の束縛をいかに解き放ち、自立していくかが主題になる。全体を通じて登場するのはヴェーラのみ。こういう話はどこかで見たことがあると思ったら、NHK朝の連続テレビ小説だった。あるいは少女マンガ。周囲より優れた女性の一代記というところで庄司陽子「生徒諸君」を思い出した。
 というのも、小説作法でいうとおよそドラマがないこと。ヴェーラが男をめぐって逡巡するところで、彼女の内面が語られず、彼女を説得する会話が延々と続く。その次の章では決着がついていて、ドラマの重大なところ(たとえば心変わりや決心、相手の同意を得ること。あるいはパーティ)がまったくない。細部に拘泥するが、ストーリーには無関心。小説や物語に浸る快感がまったくない。
 同時代の作家(ドスト氏やゴーゴリなど)に比べると、およそ読みでがないのだが、当時のベストセラーになった。著者の特異な状況(獄中にあった)を置いておくと、こういう進展しないで同じことを繰り返すソープオペラの手法が気に入られたのだろう。あとは、ペテルブルグの上流階級が舞台であるということか。うーん。
 ヴェーラはペテルブルグの貴族の娘として生まれる。ロシア帝政の盛期であって人治主義のなかにうまく入れば、出世と金儲けが期待できる(ヨーロッパの投資もこのころから盛んに)。なので親は軍人を婚約者にしようと画策する(むしろDVだな)が、ヴェーラは自立することを選ぶ(当時知的な女性の職業は家庭教師くらいしかない)。軍人のだらしなさに幻滅し、医学生の男と婚約する。そのころから男女同権を目指す。そのために行ったのは、自身を経済活動の中にいれること。裁縫の得意な仲間を集め店を開く。共同経営にして成功し、多店舗に展開。社員(という言い方はしていないが)教育をしっかりと行い(女性ばかりなので義務教育も不足している人ばかり)、事業のみならず生活協同組合も成功させる。そのような志向は、社会主義思想との関係もあり、革命家の思想にも深く共感する。
 「女性問題(実際は男性の差別やDVの問題であるが、人口に膾炙しているのはこちらなので使用する)」を書いた最初期の本ではないかしら(人種差別であればストウ夫人の「アンクル・トムの小屋」がほぼ同時期)。帝政ロシアでは階級が固定されていて差別や搾取は状態であったが、女性の場合も同様。満足な教育を受けられず、経済活動に参加できず、恋愛の自由は妨げられ、家庭では男の権力に従わなければならない。自立や自活をしようにも、社会には鉄やガラスの壁が幾重にもあって、簡単に破ることはできない。そこにおいてヴェーラは自立・自活しようとする女性のモデルとなりうる。教育を受けること、親の束縛から逃れることが最初に行うこと。そのきっかけが駆け落ちと結婚。理解ある男から教育され、自分で考えるようになって、経済参加を果たす。そして次の世代の教育を行う。
 この流れは、生活-労働-活動(@ハンナ・アーレント)の諸段階における男女同権の在り方のモデルになる。すなわち、最初の婚約(の強制)において家族の束縛や圧迫を拒否して自立し、生活の自立と同時に経済的な自立(ここでは家庭教師になること)をめざす。その後ある程度の資本を蓄積したところで、女性の自首経営による経済的自立を目指す。それを達成したところで社会的活動において支援活動を進め、自立しがたい人々を啓発し支援して自立に促す。各段階において男性(というかマチズモやミソジニー、家父長制など)の介入や攻撃がほとんど起こらないのは、現実とは遊離したユートピアを構想しているからであろう。あるいは上流貴族やブルジョアの「道徳」が抑制しているとも想像できるかもしれない。
(ヴェーラが自立のために選択した職業は、家庭教師と縫製と医師であるが、発展途上国で差別や貧困から抜け出すための職業として選ばれているものと同じ。教育や医療は無知や貧困から抜け出すための具体的な支援や啓発の手段になるのと、その職業がたくさんの人とかかわりあうので社会起業家になるのだ。)
 とはいえ、著者のブログラムを書いた小説に不満があるのは、家庭のシャドウ・ワークについて言及や考慮がないこと(資産をそれなりに持っているから自分でやる必要がないからかな)。ヴェーラは女性への暴力の支配がなくなれば女性は知的・生活において男性を追い越すかもしれないという発想をもちながら、その暴力が最初に振るわれる家庭をよく描かない(せいぜいヴェーラの母の理不尽さと無知蒙昧を描くくらい)。資本主義と市場について言及や考慮がないこと(縫製店や縫製工場が成功するまでにライバルとの競争や妨害があり、定期的な不況に襲われるだろう)。ことに自主経営では組織の拡大につれて管理や意思統一が難しくなるはずだが、そこをスルーしているところ。まあ、ある程度の規模になったら有力なメンバーに新規出店させて一切を任し、メンバーが増えすぎないように工夫して、問題を回避しているのだろう。と好意的にみる。著者が影響を受けたと想像するアソシエーショナリズムの素朴な形態がここにあるのであって、資本主義ではない経済活動の未来をみたいから柄谷行人「倫理21」(平凡社)

 

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2020/01/24 チェルヌイシェフスキー「何をなすべきか 下」(岩波文庫)-2 1863年 1863年