odd_hatchの読書ノート

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フョードル・ドストエフスキー「貧しき人々」(河出書房)-2

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 対するマカールでは下宿の同居人ブルシコフの存在に目をひかれる。マカールと同じ小官吏。彼は上司の不正か何か巻き込まれて訴追されていた。それは彼を意気消沈させるものであったが、勝訴し、職場の信頼も復活する。パーティの席で興奮して疲れて休んでいたが、一時間もしないうちに死亡しているのを発見される(残された家族が途方に暮れる)。ここでは人生の成功がその直後に悲惨に至るという突然のドラマがおきる。ドスト氏の冷静な眼は、どんな人物にも容赦がない。
 マカール自身においては、ヴァルヴァーラの援助に熱中しすぎたせいか、食事と衣服に気を使わなくなり、仕事に身が入らなくなる。重要な書類の筆写(コピーもガリ版もない時代だ)で一行抜かすという致命的なミスをする。全官吏の前に出て叱責されるという苦痛な状況に陥る。そのとき、ほつれた糸が切れてボタンを落とすという失態。ボタンをはいつくばってさがすというみっともない姿をさらけ出す。それがさらなる叱責、パワハラに向かうかと思いきや、チャリティ精神にあふれる上司によってとがめられるどころか100ルーブルももらうということになる。苦痛、屈辱の極みがいきなり逆転するわけだ。こういう強いコントラストが起こるのがドスト氏の小説のおもしろさ。泣きと笑い、栄光と屈辱、悲惨と滑稽、こういう対立事項がいちどきに現れるという稀有な瞬間がなんども現れる。(それはのちの小説になるほど顕著になる)。
 とはいえ、マカールという高年官吏に全面的に共感できるかというとそうではない。口では寡黙ではありながら、文章では饒舌な男、文章においては自分の姿を誇張し、見せたい姿をみせようとトリックをさかんにしかける。すなわち、手紙という形式は本心を正しく表明するという暗黙の前提があって、そこに書かれたことは彼の真実であり本音であると思わせる。まあ、ひとりごとのしゃべりは告解であるというわけだろう。でも、ここでのマカールの手紙の文体はそのような真実や本音で書かれているかというとそうは思わせない。というのも、なにかをかいた後、即座にその釈明をし、相手の質問を予期して先回りに説明している。どうしても彼が不遇であり貧困にあることを納得させようとするのだ。それはその通りであるかもしれないが、マカールは不遇や貧困にあるから自分の真情が正当で、他の目的を持たず、他者に親切であることまでを納得させようとしている。繰り返しヴァルヴァーラに自分の愛の美しさや正当さを力説し、邪念がないことを説明する。そうであることを補強するかのように、なけなしの金をヴァルヴァーラに贈る。
 彼の行為は資本主義経済下の自由主義では、まれな利他的な行為であるかのように思わせる。でもそれが自分に伝わらないのは、手紙において、他人に配慮するようにしていながら自分のことばかりしゃべっているから。ヴァルヴァーラが下宿の賄の老女の愚痴をこぼしても、それに同情するふりをしながら自分の過去を振り返るのに執着する。きわめつけは、ヴァルヴァーラが篤志家に見初められて、結婚することになったとき。あわただしい式の準備に新しい家の引っ越しのために、手紙を出せなくなったヴァルヴァーラに泣きの手紙をいれ、あまつさえヴァルヴァーラの住んでいた下宿に引っ越す。最後の手紙では「誰に当てて手紙を書いたらいいのか?」とヴァルヴァーラをなじる。
 まあ、マカールの行動は、利他主義をよそおいながら、実際のところは自分のことしか考えていない。他者を目的ではなく手段にしていることが明らかになる。この行動や心情は、たぶん「地下生活者の手記」でさらに掘り進められるだろう。
 あと、この小説では子供の悲惨さ(暴力とネグレクト)が繰り返し描写される。ここものちに繰り返し掘り返される重要な主題。
 のちの大長編を予感させるところは少ないが、さまざまなモチーフが散見できる。その点ではなるほどドスト氏らしさを予感させる。でも、おれはこの小説の作家が将来世界的な大作家になるという予言をする勇気はない。とんだぼんくらですな、おれは。