odd_hatchの読書ノート

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ジェレミー・ウォルドロン「ヘイト・スピーチという危害」(みすず書房)

 2012年にでたヘイトスピーチの法規制を主張する本。ヨーロッパ諸国はヘイトスピーチ禁止法をもっているのに対し、アメリカは法がない。法規制の反対論が強い。そのような状況での主張。この国の邦訳は2015年で、日本では法規制がなかった時代で、アメリカの論争を紹介する意味合いで出たのだと思う。
 なお、法規制がないからといってアメリカではヘイトスピーチが野放しになっているかというとそうではない。ヘイト集団やレイシストの示威行為はしょっちゅう行われているが(おそらく日本の数倍)、それに対抗する市民の活動が強い。1000人のレイシストのデモに、抗議者が数万人集まるという具合。公共圏(交通機関や路上、店舗など)でヘイトスピーチがあれば、通りすがりの市民が激しく抗議する。ヘイトスピーチをする従業員がいることが発覚すれば、企業や自治体は即座に解雇する。そのような市民の活動があり、抑止効果が働いている。日本のように、ヘイトスピーチが放置されるどころか、警察がヘイトデモや街宣を警護し、政治家や公務員がヘイトスピーチを発しても罰せられることが少ないという社会ではないのである。
 むしろ市民による公正な社会をつくる活動があるから、法規制がなじまないと考えているのかもしれないと思って読んだほうがいい。

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第一章 ヘイト・スピーチにアプローチする ・・・ ヘイトスピーチはマイノリティの尊厳や安心を奪い侮辱する。同時に包括性というコミュニティの公共財を傷つけ攻撃する。アメリカでは、表現の自由尊重のためにヘイトスピーチ規制法はないが、アメリ憲法修正第1条(当の表現の自由を書いた条項)で対応できると考える。

第二章 アンソニー・ルイスの『敵対する思想の自由』 ・・・ 書評。タイトルからわかるように、ルイスの主張はヴォルテール野郎の主張(「私はあなたが言う事には賛成しないが、私はあなたがそれを言う権利を死んでも護るだろう」。ヴォルテールの名誉のための補足。これは、ヴォルテールの言葉ではありません)と同じらしい。過去に政治的言論を法や司法が抑圧することがあったから、ヘイトスピーチの規制に適用するのはよくないという理屈。それに対してウォルドロンは」は修正1条で規制は合理的と主張する。(イギリス、ニュージーランド、カナダ、フランス、スカンジナヴィア諸国では、ヘイトスピーチの出版が2012年現在で法で禁止されているとのこと。ドイツもナチスの主張を肯定する出版は禁止。日本では野放し。) 
(政府への攻撃・批判は表現の自由という考えができたのは、国家が大きくなって安定になってから。それ以前の国家が不安定な時代には政府批判が制限されることがあった、とのこと。)

第三章 なぜヘイト・スピーチを集団に対する文書名誉毀損と呼ぶのか ・・・ この問いが出てくるのは、世ロッパの国では「集団に対する文書名誉毀損」に反するという理由でヘイトスピーチを規制する法があるから。でもアメリカにはないし、この考えが一般的に受容されているわけではない。そこで著者は過去のアメリカの判例をみることで、ヘイトスピーチに「集団に対する文書名誉毀損」が成立すると説明する。ヘイトスピーチ(会話だけでなく行動も含む)は憎悪(表現内容)と効果(コミュニティへの扇動とマイノリティの沈黙・恐怖など)によって判断でき、それは集団としての平等なシティズンシップの尊厳を棄損する。

第四章 憎悪の外見 ・・・ 正義を実現する秩序ある社会(@ロールズ)を考えたとき、ヘイトスピーチは秩序ない社会を作る。コミュニティのメンバーが暮らすための安心という公共財を破壊する。なので、規制は国家の責任であるだけでなく、市民がヘイトスピーチをやらない/やらせない義務を持つ(ドゥオーキンは国家の責任だけとしているらしい。その反論)。
(この章の議論がたるいのは、マジョリティとマイノリティの権力の非対称性が考慮されていないこと。ヘイトスピーチに対して被害者が対抗できない/困難であるということをみていない。またコミュニティへのヘイトスピーチには、レイシストやヘイターがやらないことより、見聞きしたときにすぐに多数から抗議・叱責するようになることのほうが重要。ヘイターは故意に/確信的にヘイトスピーチをするので、罰則のない法や理念で抑止するのは極めて困難。)

 「非対称性」の参考エントリー
法学セミナー2015年7月号「ヘイトスピーチ/ヘイトクライム 」(日本評論社)

第五章 尊厳の保護か、不快感からの保護か ・・・ ヘイトスピーチの規制は主観的な感情の不快感ではなく、人格の持つ基本的な権限である尊厳(シティズンシップの尊厳)の棄損にもとづいておこなわれるべき。これは区別可能。
ヘイトスピーチが棄損するのは尊厳であるというのは、当時の最先端の主張。本書の「尊厳」概念は明確でないので、下のリンク先の参考書でもう少し整理された議論を読むことを推奨。)
(この章の議論がたるいのは、ヘイトスピーチに接したときにマジョリティが感じる不快感と、マイノリティが感じる尊厳の破壊を区別していないこと。ある表現が攻撃対象に含まれないマジョリティと含まれるマイノリティでは感情・身体反応は全く異なる。マイノリティのほうがより深刻で、回復が難しい。なので、ロールズの格差原理(最も不利な立場におかれた人の利益の最大化)を適用する、という考えのほうがすっきりすると思う。

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(この図で言うと、ウォルドロンは「マコ㌧」と「しばき隊」の関係だけを問題にしていて、マイノリティへの攻撃が無視している。)

 「シティズンシップ」の参考エントリー
宮島喬「ヨーロッパ市民の誕生」(岩波新書) 

 なお、タイトルの議論はヘイトスピーチを集団への名誉棄損とみなせるという考えの延長から出てくるもので、個人への名誉棄損の線引きを尊厳/不快感で見る議論を基にしているのかも。あと、宗教冒涜の表現規制を考慮するときの議論でも使っている。アメリカに起きている問題はイスラム教への侮蔑冒涜表現をどう規制するかという問題。俺はヘイトスピーチと同じくガイドラインを作ることから始めるのがよいと思う。)

第六章 C・エドウィン・ベイカーと自律の議論 ・・・ 以下2章は規制反対派への反論。ベイカーの論旨は、表現は個人の自律的な自己開示で根源的な権利、その規制は自立の侵害であるというもの(個人主義リバタリアンの考えなのでしょう)。「思想の自由市場」では悪は淘汰されるという市場原理が働くとする。ウォルドロンは、言論の自由による危害が言論の機会の重要性を上回るときには規制できる。表現の内容ではなく、予想される結果で規制できる(なので、ソフトなヘイトスピーチも規制可能とする)。
(ベイカーの議論では、ヘイトスピーチの被害者やターゲットとなるマイノリティの利害・尊徳を無視している。ここでもマジョリティとマイノリティの権力の非対称性があることが考慮されていない。思想の市場といっても、ヘイトスピーチはマジョリティの成人男性がマイノリティの女性・未成年者・高齢者に向けられることが多いので、ここでも権力の差がある。それにヘイトスピーチの被害で対抗言論ができない/その場がないことも無視されている。)

第七章 ロナルド・ドゥオーキンと正統性の議論 ・・・ ドゥオーキンの論旨は、表現の自由はデモクラシーの正統性にとって必要条件なので、規制してはならない。ヘイトスピーチを規制すると、ヘイトクライムを対抗する法の正統性がなくなる、ということらしい。ヴォルテール野郎とか正義の相対主義とか不寛容には寛容でという議論をしているらしい。それに対するウォルドロンもドゥオーキンの議論がよくわからないとかの反応をしているようだ。
(ドゥオーキンは政治哲学や法哲学の大家なのかな、すみません、知らない人です。彼の議論はサンデルの公共哲学とか公共善とかコミュニタリアンなどに共通しているらしい。でも、素人考えでは、デモクラシーの中にいる個人や集団は権力の持ち方に格差があって、表現の自由が事前に制限されている個人や集団がいる。なのでレイシストやヘイターのヘイトスピーチを容認すると、それがターゲットにしているマイノリティは沈黙を余儀なくされて、重要な表現の自由を執行できなくなる。マイノリティの表現の自由が奪われている状態はデモクラシーの正統性を示すものなのか。そうではないでしょ。それが上の議論ではすっぽり抜けている。ヘイトスピーチの現場に行かない人は、表現や議論が行われる場はみな議論のルールを守って他人の話をきちんと聞き他人の批判を受け入れると思っているようだが、そういうのは学会の討論くらいにしかない。ふだん学会や教授会にしか出ていない人はそれをデモクラシーのモデルにしているのではないかと勘繰ってしまう。実際は、ルールを無視して大声でわめき他人を攻撃し追いかけて恫喝するような者がヘイトスピーチ民族浄化扇動をするのだ。)

第八章 寛容と中傷 ・・・ 17世紀に宗教対立や反ユダヤ主義ヘイトスピーチヘイトクライムがあったときに、哲学者などは寛容の議論を行った(ロック、ホッブス、ベール。のちに啓蒙主義の時代のモンテスキューヴォルテールらも)。詳細は省くとして、寛容は宗教の信念や実践を他人に捨てさせるような主張をする際に、法を作ったり物理的な力を行使するなどの強制や制裁をくわえてはならない。そのような暴力(侮辱、名誉棄損、デマなどを含む)をやらないし、行使しないのは市民の義務である。意見を異にする人と友情や愛情を持ったりするなど直接に交通(@マルクス)する必要や義務などはないが、通常の交際や相互行為(売買、公共圏や公共財の使用、コミュニケーションなど)が社会やコミュニティでできるようにしなければならない。これが寛容。
(これは目からうろこの指摘。寛容を意味するトレランスは、「特定宗教に関する信教の自由を政府や君主が保証したもの」という宗教寛容令からきている。マイノリティの権利を保証するのが寛容なのだ。日本語の「寛容」は寛大・許容などの意であるが、そこに放置や黙認や我慢や耐忍や忍従などの意味が強い。そうではなくて、主張すること・表現することはよいのであって、暴力をふるうのは絶対にNG。暴力が振るわれているのを放置するのもNG。反ヘイトのカウンターの「非暴力的超圧力」というのが寛容のイメージに最も近い。)
(日本だと、複数の宗教間で対立がおきて、殺人・虐殺などを報復しあった経験がないから(権力による特定宗教への弾圧はある)、「宗教寛容令」のような特定宗教に関する信教の自由を政府や君主が保証するという考えが根付いていない。なので、「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容たるべきでない」がヴォルテール野郎風な、どっちもどっちのように解釈されてしまう。そうじゃないんだよ、と。)
<参考エントリー>
渡辺一夫「僕の手帖」(講談社学術文庫)

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ヘイトスピーチに関する――スコキーのナオナチなどに関する――現代の論争では、ヴォルテールはしばしば、次のように述べたとして引用される。「私はあなたのいうことを憎むが、あなたがそれを言う権利は死んでも守る。」ヴォルテールはけっしてそんなことを言っても書いてもいないということは、今では誰でも知っているのではないかと思う。どうやら、二〇世紀初頭に男としての偽名を使って書いていたベアトリス・ホールという名前のイギリス人の著者が、クロード・アドリアン・エルヴェシウスによって書かれた書物が焚書にあった事件に対するヴォルテールの態度を要約する際に、この言葉を使ったものであるらしい。その発言をヴォルテール本人に帰するという誤りを犯したのは、彼女の読者だったのであり――そしてその後には数えきれないほどの、アメリカ自由人権協会に臆する、人の尻馬に乗る連中だったのである。さらに、かりにその言葉がヴォルテールのものだったとしてさえも、それらがとりわけヘイト・スピーチの保護に向けられたという証拠は何もない。ところが、私がヴォルテールの『辞典』から引用した一節のほうでは、彼はとりわけ宗教的ヘイト・スピーチを嫌っている。彼は「中傷が嫌いなので」、ムスリムの習慣に自ら悪評を浴びせるのを慎むつもりなのである。(P269-270)

 

(この議論からロールズの正義やサンデルの公共善などに議論を発展できるし、そこからコミュニティに関与する民主主義やリベラリズムのありかたを考えることができそうだが、そこはない。読者が自分で補完することになる。)

 

 著者は憲法理論や法哲学などを専攻する学者なので、その議論は素人が追いかけるにはトリビアにすぎるところがある。それに書かれて7年(わずか!)たつと、議論の不備が目に付く。サマリーにあげたようなマジョリティとマイノリティの非対称性や、ヘイトスピーチ被害者の被害実態、ヘイトスピーチのタイプなど。議論のなかでは、具体的なヘイトスピーチの実例があげられるが、議論の中ではそのひどさがうすれてしまうところもある。なので、俺のような素人は「ヘイトスピーチとは何か」のできるだけ新しい議論を先に読んでおいて、アウトラインを掴んでからこの本を読んだほうがいい。参考になるのは、
師岡康子「ヘイト・スピーチとは何か」(岩波新書)
法学セミナー2015年7月号「ヘイトスピーチ/ヘイトクライム 」(日本評論社)
別冊法学セミナー「ヘイトスピーチとは何か」(日本評論社) 
 日本のヘイトスピーチの多くは民族・部落・女性・性的マイノリティに向けられるが、アメリカでは他宗教に向けられる場合がある。そのために、事例の多くが宗教侮蔑に関するものになる。日本ではあまり注目されていない論点なので、読書の気力が必要。でも最近は民族差別に対するカウンターが強くなったので、そちらの主張を下げて宗教差別に向かうケースが増えた。本書の議論には一応注目。
(第7章の「寛容」をみると、他宗教の行為を制限させたいと思ったり、不合理を指摘するような主張の表現と暴力による強制や制裁には線引きを引けるそう。たぶんヘイトスピーチガイドラインが有効になる。信念や実践を捨てさせることを主張すること自体は問題になりうるのではないかしら。気になるところ。)
 上のような問題(不満?)に加え、ここにはでは何ができるかという実践のアイデアがない。もともとが研究者や司法関係者にむけた論争の本であるらしいので、しかたがない。俺のような素人が読むにはまだるっこしいな。好事家向け。